負ケラレマセン勝ツマデハ



原子力ルネッサンス、あるいは原子力学科出たやつみんな来い

 東芝の苦境を聞くたびに、原子力ルネッサンスと呼ばれていた時期を思い出す。
 今となっては真偽のほどは定かではないが、海外での原発建設受注を見越した某大会社が「原子力学科出た人ならすぐにでも中途採用する」という話がまことしやかに流れていた。あと、東芝が原子力関連の仕事経験者を、積極的に中途採用していたという話も聞いたことがある。
 まあ、そうした業界内の一部の空気は、少なくとも日本においては311で雲散霧消したが。


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# by ferreira_c | 2017-01-28 15:59 | つぶやき | Trackback | Comments(0)

もんじゅ投了

 最初に断っておかねばならないが、原子力発電事業を担っている電力会社は、夢の原子炉とも呼ばれる高速増殖炉については乗り気ではない。あくまでもお付き合いという感じが相応しい。それを念頭にもんじゅについて記しておく。これまでにいろんな本で電力会社の洞が峠を決め込む姿勢は記述されているので、いつか改めて紹介したい。
 今から3年前の12月8日に*1、
"今日は大東亜戦争(アジア太平洋戦争)の開戦記念日であり、アメリカ時間でジョン・レノンが撃たれた日であり、高速増殖炉もんじゅがナトリウム漏れ事故を起こした日である。もんじゅ倒れて18年、その間JCOによる臨界事故もあったが、何と言っても福島が全てを変えた"
と書いた。先日、もんじゅの廃炉が正式に決まった。前にも書いたが、もんじゅの長き不在について、電力会社や旧科学技術庁(科技庁)の天下りによって占められていた旧動力炉・核燃料開発事業団(動燃)幹部や旧科技庁幹部や政治家達のそれぞれの「あんな、ややこしいものは俺の目の黒いうち(在任中)には稼働させない」というような不作為の集合が為したものと推察した。まずは、動燃の理事長人事と出来事を簡単に並べてみたい*2。

歴代理事長と主な出来事

1967年10月2日-1972年9月12日 井上五郎(中部電力)
1967年10月2日 動燃の設立
1972年9月13日-1977年11月21日 清成迪(日立製作所)
1977年11月21日-1983年10月1日 瀬川正男(通産省)
1983年10月2日-1986年3月3日 吉田登(関西電力)
1986年3月4日-1989年6月30日 林政義(中部電力)
1989年7月1日-1994年6月30日 石渡鷹雄(科学技術庁)
1994年4月5日 もんじゅの原子炉が初臨界達成。
1994年7月1日-1996年5月24日 大石博(関西電力)
1995年12月8日 もんじゅでナトリウム漏洩事故発生。
1996年5月24日-1998年9月30日 近藤俊幸(東京電力)
1997年3月11日 東海事業所再処理施設アスファルト固化処理施設で火災爆発事故。

1998年10月1日 核燃料サイクル開発機構に改組
1998年10月1日-2003年12月31日 都甲泰正(東大、原子力安全委員会理事長)
2004年1月1日→2005年9月30日 殿塚猷一(中部電力)

2005年10月1日 日本原子力研究所と統合して、日本原子力研究開発機構に改組
2005年10月1日→2006年12月31日、殿塚猷一(中部電力)
2010年5月8日 出力0.03%で核分裂反応が一定になる臨界に達する。
2010年8月26日、炉内中継装置落下事故で再び運転停止。

 日本原子力研究所との統合については、省庁統廃合に合わせて議論が進められ、2001年12月19日の閣議において、原子力二法人の統合が決定された。もんじゅ事故後の再稼働計画がどういう経緯を辿ったかは知らないのだが、こうして年表を作ってみると、続いて起こったアスファルト施設での火災爆発事故対策や、統合に関する原研との折衝にエネルギーを割かれてしまい、もんじゅの再稼働はおざなりになってしまったのかもしれない。現に、2005年2月にようやく、福井県知事から改造工事を了承され、2010年5月6日 停止後から延べ14年5か月ぶりに運転を再開したほどである。天下り役員や役人の不作為もさることながら、現場の職員にも「自分達はナショナルプロジェクトだから(予算は大丈夫)」という甘えもあったのかもしれない。
 しかし、もんじゅがろくろく成果もあげないまま廃炉にするのは惜しいことだ。あの原子力船むつでさえ、試験航海でデータを取ってから廃船にしたのだ。今さら大洗の常陽でデータを取ると言っても、果たしてどれ程の成果があがるが甚だ疑問である。
 もんじゅに相応しい言葉として斎藤緑雨の言葉を添えておく。

非を遂げよ、希はくは非を遂げよ、
非は必ず遂ぐ可きものなり。
成功は非を遂ぐるに由りて來り、
失敗は半途に非を悔ゐ、非を悟り、
非を悛め、能く遂げざるに由りて來る。


*1 もんじゅ倒れて18年
*2 動力炉・核燃料開発事業団
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# by ferreira_c | 2016-12-31 16:54 | 原子力 | Trackback | Comments(0)

電力会社への抗議も良いが、大使館には抗議しないの?

 反原発派の人たちで直接行動を起こすならば、電力会社や原発サイト、もしくは経済産業省へのデモ行進となるのだろう。しかし、リスクの高い原発という意味では、日本の原発なのだろうか? もしも私が反原発派であれば、原発大増設計画を有する中華人民共和国(中共)の大使館か領事館への抗議行動を第一に考える。
 中共は原発の建設だけでなく、原子力の新規技術開発に熱心であり、日本の大洗にある高温ガス炉(HTTR)と呼ばれるタイプの安全性が高い炉への開発も積極的に取り組んでいる。311で停滞している日本の研究を脅かす日が近いかもしれない。また、将来的な原発の輸出に備えて、世界各国と二国間原子力協定を結んでいる。IAEAにお墨付きをもらった中共独自の原子炉「華龍1号」もある。
 それなのに何故建設を反対するかと言えば、儒教圏独特の組織の調達部門の腐敗にある。中共といえば、宇宙ステーションを運用するくらいの技術力を有しているので、完成直後の原子炉の安全性は十分に高いであろう。問題は定期点検の度に交換される重要部品の品質である。基本的に原子力級の部品は、高線量の放射線に曝されたり、地震災害等で破壊されないように、総じて高価格である。それを調達部門の担当者が私腹を肥やすために、二級品、三級品を購入して差額を懐に入れるというシチュエーションを想像することから逃れられないでいる。
 加えて、河川の水量の枯渇が叫ばれている内陸部でも、軽水炉を増設する計画である。果たして、冷却水の確保が困難になることはないのであろうか?
 あと、大増設による運転員の確保は大丈夫なのだろうか? 単なる頭数であれば揃えられるだろうが、危機に対処しうる組織作りのためには、一定数の熟練作業員の確保が必要である。中共がその準備をしているとは考えにくい。
 と、いろいろ考え始めたらキリがないが、とにかく彼の国には安全に運用していただきたいものである。

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# by ferreira_c | 2016-12-19 03:18 | 原子力 | Trackback | Comments(0)

もしこの人でなかったら2~久布白兼致(3)JRR-3、JPDR、JMTR~

 さて、久布白兼致(くぶしろかねよし)*1は、他にも2号炉(CP-5、JRR-2)*2、3号炉(国産1号炉、JRR-3)*3、動力試験炉(JPDR)*4,5、及び材料試験炉(JMTR)を担当した。JRR-2については、土光とのエピソードもあるため、別途紹介する。
(1)JRR-3
 JRR-3は別名国一炉とも呼ばれた国産第一号の原子炉であり、産業界からの希望で大手電機5社(日立、三菱、東芝、富士、明電、但し黒鉛は昭和電工担当)で分担することが決まっていた。その分、設計担当の研究者たちの思い入れも深かったことから、例によって予算上で大変なこととなった。
 早い段階で大枠の予算が決まっていたにも関わらず、技術的な詰めの段階でどういうことをこの炉で勉強するかが議論となり、研究者の癖として、予算に関係なくあれもやりたい、これもやりたいとの希望が追加されて、当初予算の1.5倍となってしまった。さすがにJRR-1の建物だけとは予算規模が違いすぎるので、理事会が招集されたが、何度開いてもよい結論が出なかったと言う。業者へ値引き交渉するか、政府に増資交渉するかの二者択一しかないのに、誰も引き受けて交渉しようとしない。しびれを切らした久布白が、「皆さん誰もやろうという人がいませんが、私が値引きの交渉を引き受けて、出来るか出来ないかやってみましょう」と申し出たら、理事が皆ほっとした表情となり、駒形理事長から「君がやってくれるか頼む」と発言があり、理事会は終わった。
 JRR-1の値引きの経緯もあったので*6、まず日立と交渉した。「予算2/3に削減要求」に驚くも、最後は「外ならぬあなた(久布白)の申し出ですから受けます」となったという。久布白は業者の赤字処理方法の裏側まで知っていたので、強気の交渉に出られたのであろう*1。この調子で、「最大手の日立製作所が了承してくれたから、御社も値引きに応じてほしい」と話を進めて、事なきを得た。
(2)JPDR
 まず、当時の発電原子炉が製作可能な米国のGE(ゼネラルエレクトリック)とWH(ウエスティングハウス)の仕様や参考見積もりを取ることから始まった。原研内部でどちらを選ぶかが先決問題であったが、政治的な絡みもあったせいか*4、"小田原評定"が続いたらしい。結局、ここでも久布白が"原研内での決め方は、値段、性能、技術を含めて必要項目を研究者に出してもらい、その項目を理事会で決定して、項目別に比重があってもよいが、理事者が個々別々に採点してその合計点の優位のものを採用することにしよう"と申し出たら、理事会でそのまま決定された。当時の嵯峨根担当理事をはじめ、研究者出身の理事が揃っていたはずだから、この程度の解決策であれば、すぐに提案されてもおかしくないと思うのだが、それぞれの理事が利権等に絡め取られていたか、或いは徹頭徹尾無関心、無責任だったのではないか? 
 JPDRについては、大筋が決まる前に嵯峨根担当理事の外遊が決まったので、業者の選定、技術交渉、建設、試運転までを久布白の責任で完了したらしい。思うに、このJPDRでの仕事が、以前紹介した全貌という雑誌の中の「原研理事者のエンマ帖」の良からぬ噂のある人というまとめに繋がったと思われる*7-9。
"久布白理事については、
「あの人はとかく問題のある人でねえ、しかし、もうやめる肚でしょうから」
と古いスキャンダルめいた話をはじめて、途中で口をつぐんだ。"

 回顧録はどうしても「人、皆飾って言う」状態に陥りがちである。再度述べておくが、久布白の記事ではそこまで誇張は感じられない。ある意味、予算のまとめの時の大鉈振いや、総務・労務の面での口出しが適切であった分、逆恨みを買ったのではないだろうか?
(3)JMTR
 この炉については、最初から関わったこともあり、途中で予算額の調整を行えただけでなく、業者との調整もできたので、無事に終えたようだ。多少、業者間の談合や情報漏洩にも言及してはいるものの、当時ならば仕方ない、或いは問題ないレベルだったのだろう*1。
 ここまで、久布白に焦点を当ててきたが、改めて本題に立ち返ってみたい。もしこの人が理事でなければ、どうなっていただろうか? 間違いなく、原研の実務におけるグダグダさ加減がもっと早く露呈したであろう。ただ、その分、却って改革が先行したかもしれない。また、久布白にもう少し権限が与えられ、もっと昇進していたら、どうだっただろうか? 私は案外、当初の特殊法人設立の理念に近い形で、産官学の協力の元、原子力が発展したのではないかと考える。しかし、その後の赤い原研に対抗できたかどうかは疑問が残る。

*1 温故知新-37-原子力研究所時代の"裏話" 、久布白 兼致、日本原子力学会誌、34巻、第6号、1992年6月
*2 贖罪のようなものか?
*3 国一燃料破損処分事件とは何だったのか? (1)共有されなかった研究結果
*4 橋本清之助、またの名を陰の原子力委員長~(1)ジイサンと呼ばれた男~
*5 何故、原子力の研究機関は統廃合されたか? (番外編)原子力の日に想う
*6 もしこの人でなかったら2~久布白兼致(2)~
*7 もしこの人でなかったら2~久布白兼致(1)~
*8 何故、原子力の研究機関は統廃合されたのか?(3)赤い原研(その2)~昔、全貌という雑誌があった~
*9 全貌、全貌社、昭和39年4月号、20ページ
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# by ferreira_c | 2016-11-03 14:21 | 原子力 | Trackback | Comments(0)

もしこの人でなかったら2~久布白兼致(2)JRR-1~

 さて、久布白兼致(くぶしろかねよし)である。前にも書いたように、個人に関連する資料は少ない。分かっていることは、財界の後押しで原研入りしたことと、電力国管化*1,2の結果として発足した日本発送電に在籍し、戦時中は全国の火力発電所の補修と改良を担当し、終戦直前に資材課長となったことくらいである*3。
 日本原子力研究所(原研)に入ってからは、建設を担当する理事であった。大きな建設物として、1号炉(WBR、JRR-1)、2号炉(CP-5、JRR-2)*4、3号炉(国産1号炉、JRR-3)*5、動力試験炉(JPDR)*6,7、及び材料試験炉(JMTR)を担当した*1。
 JRR-1は炉本体と液体燃料は輸入品であり、日本側の担当はメーカーの設計図を元にして、炉の下部の部屋(Sub Pile Room)と建屋を作る計画であった。具体的には、図面から必要な材料を拾い、積算して予算を組み、その積算結果を製造物として国内業者に発注する手筈であった。数人の研究者が議論していたところにたまたま立ち会った久布白はどのくらいの予算になるか聞いてみたと言う。その返事は「総重量○○トン、単価は当時の製造物の最高○○円」と得々として知らせてくれた。久布白は黙っていれば良いものをついつい「君らは最高の予算を出したつもりだろうが、二流の業者ならいざ知らず、一流の業者に出すとおそらく2倍の見積もりになるよ」と言ったが、皆きょとんとした顔で久布白を見たので、それ以上は言わずに離れたという。久布白の発言の裏付けは下記のとおりであった。
"当時(昭和30年代初頭)日本中は大増設の最中で、どの大手業者も大物の製品を腹一杯受注していて、忙しい最中にこんな作ったこともない変なものを、満腹状態の工場の大物中にはさんで作らせることは、納期の制限でもなければ別として、研究所の要求する期限内に作らせるとすれば、大物の受註品に大きな悪影響を及ぼすことは必至である。本流の妨げにもなるので、その損失は大きく、倍もらっても工場としては採算上不得策であることなど、研究者にはわからないらしい。"
 とは言え、そう大きいものでもなかったから、何とかなるだろうと考えて、敢えて予算増額を勧めなかったが、2か月後に届いた見積もりの最低額は日立製作所のもので、予算の2倍であったそうだ。今更予算増額も言い出せず、担当理事に相談してもどう処置するか決心してくれないことに困った研究者は、結局、「久布白さんは業者に詳しいようですから何とかして戴けませんか」と頼みに来たと言う。久布白の担当外であったが、最初の炉でつまずいてはまずいと思い、日立の営業担当理事と直接値引き交渉に当たった。値引きを半分と言ったら、日立の理事は目を丸くしつつも、「金額も大きくないので、あなたの言う通り値引きサービスしましょう」となった。久布白は担当の研究者に「やっぱり年寄のいうことはよく聞いておくことだ」注意した。
 これらのやり取りは、現在の公共事業等でもよく有ることではないだろうか? ただ、長期に渡る事業の予算化において、生き物である経済状況をどれだけ反映させるかは非常に難しい問題であるので、せいぜいホールドポイントを決めて、いついつまでにどこまで進んでなかったら計画を見直す、中止する等とした方が良いのだろう。言うは易しであるが。

*1 国管アレルギー他(1) 森一久オーラルヒストリーより
*2 国管アレルギー他(2) 森一久オーラルヒストリーより
*3 温故知新-37-原子力研究所時代の"裏話" 、久布白 兼致、日本原子力学会誌、34巻、第6号、1992年6月
*4 贖罪のようなものか?
*5 国一燃料破損処分事件とは何だったのか? (1)共有されなかった研究結果
*6 橋本清之助、またの名を陰の原子力委員長~(1)ジイサンと呼ばれた男~
*7 何故、原子力の研究機関は統廃合されたか? (番外編)原子力の日に想う
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# by ferreira_c | 2016-11-03 12:42 | 原子力 | Trackback(1) | Comments(0)

もしこの人でなかったら2~久布白兼致(1)~

 日本で初めて原子力で発生した電気を送電した記念日(1963.10.26)直前に始まり、最終的に翌年の6月の菊池日本原子力研究所(原研)理事長辞任を以て終息した所謂"赤い原研騒動"であるが、その最中に二人の理事が辞任した*1。そのうち、菅田理事については、菊池理事長辞任に絡んで言及したが*2-4、殆ど触れなかった久布白理事について少し書いてみることにする。
 久布白兼致(くぶしろかねよし)を検索してみても、ヒットする項目は少ない。まず、東京鹿城会ホームページによれば、旧制佐賀県立鹿島中学を大正10年に卒業したようである*5。他は、原研理事としての記事であり、例えば原研の建設地選定委員会のメンバーになっていたとか*6、第五福竜丸事件のカウンターとして日米原子力関係者が企画立案した「原子力平和利用博覧会」が水戸で開催されたときの出席者だったとかである*7。今、手元に無いのだが、原研建設時の地元住民説明会の時に、結構なブラックジョークを話していた記憶がある。また、以前紹介した全貌という雑誌の中の「原研理事者のエンマ帖」と書かれた原研理事の評価では、下記に示すように良からぬ噂のある人という感じでまとめられていた*3、8。

"久布白理事については、
「あの人はとかく問題のある人でねえ、しかし、もうやめる肚でしょうから」
と古いスキャンダルめいた話をはじめて、途中で口をつぐんだ。"

 しかしながら、本人の回顧談を読むと印象は一変する*9。もちろん、「人みな飾って言う」ものであるから多少割り引いて考えねばならないが、淡々と事実を積み重ねたように感じるので、一部を紹介する。
 以下に引用する序文だけを読んでも、もう少し彼と同様の力量を有する幹部がいたら原研を取り巻く状況は変わっていたのではないか? あと、「とかく問題がある」と評されたのは、色々な所に顔を出す厄介な存在の裏返しではないだろうか?

"私のように研究者でなく、実務工学者として、研究者と一緒に仕事を始めて知ったことは、各方面から集まった方々は非常に真面目で、会議をしても、なかなか議論に花が咲くし、感心な面が多々あった。しかし私が聞いていると、私にはどこか欠けているところがあるような気がしてならなかった。特に研究者が集まってある仕事を計画し相談が始まると、各個々人はなかなかよいことを言うし、各自の責任範囲の数字には皆自信をもって主張する、それを集計する主催者はその数字を積み上げて出来た結果に対しては、最早や改変の余地を感じない様子だ。私は研究の当事者ではないので、積上げ数字を見ているだけだった。しかしそれだけの数字のものを作るには、予算はおそらく膨大になるので、ある仕事で作る側の私もたまりかねて、それのまとめを横から引き受けて、大鉈を振うことをやり、極端に圧縮することをやった覚えがある。
 その時の主催者は有名な研究理事で、今は勿論亡くなっているが、その時言われたことがふるっていた。「経営者の言うことはちがう。後はまかせる」と。その他にもいろいろの面で不安を感じたことがあったので、私は常に常識に徹し、研究者の裏の支え、縁の下の力持ちに徹することに決めた。
 一方、官界から見えた方の総務・労務の面でも、そのやり方に気になる面を多く見受けたので、電気屋で火力屋の私が、見るに見かねて口を出し、表面は建設部長でありながら、いろいろの面で首を突っ込む破目になり、萬細工屋になってしまった。"


*1  原子力資料集 原子力年表1960年代(1960年~1969年)1964年(昭和39年)
[URL] http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_Key=17-01-03-05
*2 何故、原子力の研究機関は統廃合されたのか?(3)赤い原研(その1)~菊池理事長の空白の3時間と宙ぶらりんの3ヶ月余~
*3 何故、原子力の研究機関は統廃合されたのか?(3)赤い原研(その2)~昔、全貌という雑誌があった~
*4 何故、原子力の研究機関は統廃合されたのか?(3)赤い原研(その3)~辞める理事は何人? 2人? 全員? それとも4人?~
*5 東京鹿城会ホームページ
[URL] http://tokyorokujou.web.fc2.com/chairpersons.html
*6 原子力研究所の敷地選定について
*7 朝日新聞記事、原子のムラ【第1部 東海村に火灯る】(24)華々しく平和利用博
*8 全貌、全貌社、昭和39年4月号、20ページ
*9 温故知新-37-原子力研究所時代の"裏話" 、久布白 兼致、日本原子力学会誌、34巻、第6号、1992年6月

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# by ferreira_c | 2016-08-17 06:52 | 原子力 | Trackback(1) | Comments(0)

やはり腐っていた官邸と、未だに腐っているマスコミ

 先程、ネットニュースで311後の緊急時に、当時の東電社長から記者会見に出席する東電幹部に対して「炉心溶融」と言う言葉を使わぬようにと指示があったと紹介されていた。冷却機能がほぼ失われていた時間が長く、1F正門の線量が上昇しだしたという事実から、少なくとも燃料損傷、いずれメルトダウンに至るというのは、少しでも原子力を囓った者であれば誰でも理解しうることだった。それを過小評価させるように導いた東電幹部に弁解の余地はない。しかし、東電だけの判断でこのようなことができたのかなと疑問に思っていたら、記事の最後に
「首相官邸からの指示により、この言葉は使わないように」
と発言したらしい。本当にあの頃の官邸は腐っていたが、マスコミは未だにその腐っていた政権を庇う腐った組織であることがハッキリした。少なくとも見出しか、記事の前半部分に東電は官邸の言いつけを忠実に守ったことを書いておかねば、アンフェアであろう。

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# by ferreira_c | 2016-06-16 19:31 | 原子力 | Trackback | Comments(0)

国管アレルギー他(2) 森一久オーラルヒストリーより

 森一久 オーラルヒストリーの第一回(2007/3/26 14:00-16:00)の後半部から抜粋引用した*1。

p.29
■日本の原子力発電
伊藤 中央公論の社員として動いておられたというので、ちょっと理科系ということをあまり意識していなかったんですが、『自然』というのはいいとして、えっ『婦人公論』と思いましたけれどね(笑い)。
 逆のこともあるんです。原子力安全委員長だった人で、僕の碁の友達なんですが、もう五十年来のつき合いなんです。このあいだ二人きりになったら、「森さん、あなた自然科学〔出身〕だったとは知らなかった」と言うんですよ。原子力の話をこれだけ五十年間議論した相手がそう言うんだからね。「どうして?」と言ったら、「いやあ、それは知らなかった。あなたは損害賠償だろうが、自分たちよりはるかに知識があって、ぎゃんぎゃんやり込められるから社会科学かと思っていた」と言うんです(笑い)。
伊藤 どうして原子力なのか、と思いますよ。
 そうですか。だって湯川教室でも原爆の初歩の勉強はしていましたからね。
伊藤 でも、それから中央公論でしょう。
 私にしてみれば、何か知らんけれど、やっているうちに道がついたところを歩いただけで、自分でどうしようということはないんですよ。
伊藤 いや、自分でどうしようということがない、ということはないでしょう。そういうグループをつくったりしているんですから。
 二、三人若い者を電源開発の社員に入れたわけですよ。もう見捨てるわけにはいかんでしょう。津野田さんから、「課長を務める人がいないんだ、君も来てくれよ」と言われれば、しょうがないということで、中央公論を辞めて行く。
伊藤 入れたというのは、京大からですか。
 京大ばかりじゃない、全国から。それこそうるさいのがたくさんおるから、「そんなところに人を入れるということは敵に塩を送るようなものだ」と、みんなが反対するわけだ。それで、「行きたいというやつが万一おれば、行かせてもいいだろう。いいな」ということになって、「行きたい者はいるか」といって手を挙げさせた。それで行かせたわけですね。
伊藤 じゃあ、研究しているときに、森さんとしては原子力発電はやるべきだと考えていたわけですね。
 私はいま思うに、湯川さんと同じような気持ち、やはり物理の端を噛った人間の責任感と、広島のあの場面を見た人間として、「原子力は大変なものだ、これはちゃんとやればすごいけれど、ちゃんとやるのは大変だ。原子力をちゃんとやることが大事だ」ということなんですね。それが、最近に至ってさえこうですから、況や初めからそれを貫こうとして努力してきた。初め、五人や十人のうちはまだ良かったんですよ。原子力基本法、なるほどそれは人知を尽くすんだから、誰でも入りたいやつはみんな入れるんだ、ということですね。しかし、原子力関係者が数十万人になってくると、原子炉の事故も最近のような臨界事故隠しも起きるわけですね。その中で〔私は〕、それこそ正義心を持ってきたのに、よく抹殺されなかったと思うんですけれどね。私が言うことがある程度筋が通っているから、みんな従ってきたわけです。私だけがやったのではなくて、橋本さんもやってくれた。
 私にしてみれば、原爆のあのときに、大袈裟に言えば、あの世の人間になっていたのかもしれないという気がするんですよ。儲けを追いかけるやつも、かわいそうなんですよ。事業だから儲けなければいかんだろうというのも、わかるんです。しかし原子力では、せめてこのぐらいのことはちゃんと考えろ、ということでやってきたわけですね。そういうかわいそうな気持ちがあるから、相手もある程度、言うことを開くんです。だから上下関係ではないんですが、あの世から見ているような心境なんですね。またやりやがった、あいつめ、偉くなりたいがためにやりやがったな、ということになるでしょう。偉くなりたいという気持ちもわかる。有沢〔広巳〕さんなんかもそういうところがありましたね。「有沢さんの世界」というのを、私は有沢さんが亡くなったときに書いたことがある。有沢さんとは十五年一緒に働いたわけです。有沢さんを原子力産業会議の会長に引っ張ってきて、一番長く一緒に仕事をしたんです。私は、この人と仕事をしていたときが一番らくだったんです。それで有沢さんの追悼文を書いたんですけれどね。

伊藤 原子力発電の技術を輸入するか、自分たちで構築するかということは、中央公論にいる段階から議論になっていたわけですね。
 外国の技術を使うのはいいけれど、一辺倒では困る。どこかから技術導入してライセンス料を払って使うというようなことだけでは、原子力をやっていけない。そういうことでやっていたわけですね。それはだいたいみんなわかっていた。それでも初めはいろんな故障が起きて、十五、六年経って、昭和四十年代に原子力発電所であちこち穴が開いたりしてからやっと気がついた。それまで電力会社は、結局火力のボイラーを原子力に変えたようなものだというようなつもりだったんです。ただ、世間がうるさいから三原則だとか安全審査だとか、形ばかりのことをやっているんだという気持ちだったんですね。本当に最近ですよ、ある程度本気になったのは。まだそうでもないでしょうね。
 だからメーカーがこういうふうに改良したいといっても、電力会社は受け付けないんです。そんな、お前のところなんか信用しない、アメリカのGEの「お墨付き」を書いて持ってこいとか、ウェステイングハウスの意見なら俺たちは信用するということですから、初めの三、四十年はメーカーが育たなかったわけです。同じくアメリカの技術を導入したフランスがあれだけやっているのに、日本は全然駄目で、ごく最近ですよ、やっと部品を輸出できるようになった。要するに自分で原子炉の設計がとことんできないんですからね。

伊藤 これだけ歴史が長いのに。
 そうなんですよ。それは電力会社だけが悪いとは言いませんが、広い意味では親方日の丸です。つまり、かかった金は必ず政府が料金で認めてくれる、全部回収できるんですからね。そういうところにぶら下がっているから甘えているわけですね。
伊藤 厳しい試練に遭わないのは駄目ですね。車の排気ガス規制みたいなことをパンとやられたら、車の会社は悲鳴を上げたじゃないですか。だけどそのおかげで日本の車は成長したわけですね。
 親方日の丸で、みんな仲良しクラブをつくってやるから、ろくなものが作れない。だから結局成功しない。成功しそうになったら電力会社がやめさせる。成功したら、「政府が金を出すことはないでしょう」と言って、やめさせた技術がいくつかあるんです。
伊藤 そうですか。
 通産省が原子力立国計画を出している。原子力の関係で一つだけ政策課長というポジションには事務系で優秀な人が来るんですね〔資源エネルギー庁電力・ガス事業部原子力政策課長〕。その政策課長にいるのが柳瀬〔唯夫〕というんですが、それが原子力立国計画をつくって出していたものですから、「日本は輪出もしなければいかん、こんなことでいいのか」と言って、このあいだもちょっと昼飯を食ったんです。「柳瀬さん、いま日本はある意味で経済的には自動車立国でしょう。自動車の会社の経営者とか従業員が血と汗を流して努力した。原子力の世界で、それだけ真剣な電力会社やメーカーの人がいると思いますか。みんな政府がお決めになるなら、皆さん一緒に仲良くやりましょう、ということでしょう」と言った。それで彼も気がついてくれて、「この際、横並び方式に護送船団方式はやめる」ということを初めて書いてくれたんです。それで、それらしきものができたんだけれど、さてどうなるか。
 「しっかりやってくださいよ」と言ったら、「私もずっと原子力でやっていく人間ではないですからね」と言う。原子力の技術のほうは、同じ人がずっと上まで行くんですが、事務系はときどき優秀なのが来て、たがを締めてはよそへ行くわけですね。「だけど、悪いことではないから、大いにやりなさい」と言ったんですね。
 初めて一社に委せて、一社に本気でやらせるということになってきた。宇宙開発もそれが成功してから、やっとちゃんと上がるようになったんですね。それが三菱重工だったんですけれどね。今度も皮肉なことに、三菱重工しかないんです。少なくともハードについては、外国も一目置くだけの力があるんです。それで再処理工場なども一番大事な部分は三菱重工がつくった。フランスが舌を巻いているというんですね。「どうして日本はそんなにちゃんとしたものができるんだろう」という。それで三菱重工に聞いてみたら、「いや、それはフランスの詳細設計の通りつくっただけですよ」と言っているというんですね。それくらい違うんですね。ほかの会社は、なんやかや言い訳ばかりです。穴が開いたとか、溶接が反対だったとかいうことばかりやっているんですけれどね。


p.35
■ビキニ(第五福竜丸)事件
伊藤 これ〔自分史〕はどこまで書いているんですか。
 いや、ほとんど書いていないんです。名前のつけ方ぐらい書いてあるかな。
伊藤 いろいろ書いてありますよ。でもこれを全部書こうと思ったら大変でしょう。
 大変ですね。だから頭の整理になったんです。先生にこのあいだ言われて、その通りだと思ったんです。もう一つあるのは、〔第五〕福竜丸なんです。これはたまたま昭和二十九年の福竜丸のときです〔一九五四年三月一日、アメリカの水爆実験による放射能を浴びた遠洋マグロ漁船。無線長久保山愛吉は半年後の九月二十三日に死亡〕。私はここの役員もしているものですからね。
伊藤 福竜丸の事件があったときからですか。
 そうです。そのときは私はジャーナリストとして、しかも『自然』という科学雑誌ですから、科学的な事実という意味では、いろんな先生と親しくなって議論もしたわけですね。ところが肝心なことを忘れていた、ということなんです。つまり私が助かったのは、輸血を辞めたから助かったんです。ところが久保山〔愛吉〕さんは輸血のため肝炎になったと思われるんです。十年経っているんです。そのとき主治医だった熊取〔敏之〕さんという人に、亡くなられる一年半ほど前に会ったんです。
 そうしたら「そのときの思い出話を」と言うので、ここの事務局長と一緒に行って話をしたところが、「いや、森さん、あのときは国立第二病院と東大付属病院とで二つに分かれて、入院していたでしょう」「そうでしたね」「絶対同じ治療法をしなさい、決して変えてはいけない、と言われていた」というんです。変えても良かったら、やり方もあったかもしれない、というぐらい、言ったんです。そのとき彼は輸血をやめたかったんじゃないか。だから私は、そのとき熊取さんは親しかったんですから、「十年前の昭和二十年にこういう経験を持っています」と言っていたら、何かが変わっていたかも知れないし、あるいは久保山さんも死なないで済んだかも知れない。

伊藤 そうですか、あれは肝臓ですか。
 そうです。結局、輸血ではないかと思われるのです。やはり人間の血というのはいくらきれいな血でも、いろいろなものが交じっているでしょう。しかも繰り返し繰り返し他人の血を入れている。僕は輸血でも、なるべく別のことをやっていたんですが、やっぱり〔問題は〕輪血ですね。。最近は、輸血も一因ということを大っぴらに言うようになりましたけれどね。しかも久保山さんより私のほうが症状としてははるかにひどかったんですからね。いまは少しは薬ができたけれど、僕のときは全然薬がなかったんですからね。このときにいろいろな資料を読んでみたら、とにかく血球の値などを比べてみても、私のほうが悪いんですよ。中で一番ひどかった久保山さんよりも悪いんです。
 だからあのとき私は取材だとか勉強が精一杯で、熊取さんと何度会ったか知らないけれど、自分の経験のことを言ったことはなかったわけですね。彼も聞きもしない。「森さんも大変だったそうだね、原爆に遭ったんだってね」ということはもちろん知っていましたけれどね、その程度さえ言ったこともないし、あまり言いたくない話だった。そんな話をしていたら、久保山さんの治療法もずいぶん変わっていたろうに。もう、いまにして思うと、後悔ばかりですね。

【コメント】
未だに久保山さんの死因を放射能症と書くメディアの如何に多いことか…orz

*1 森一久(元日本原子力産業会議副会長)オーラルヒストリー、近代日本史料研究会、2008.1
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# by ferreira_c | 2016-06-09 18:21 | 原子力 | Trackback(1) | Comments(0)

国管アレルギー他(1) 森一久オーラルヒストリーより

 日本における原子力揺籃期から成熟期にかけて活躍した人物の一人に、日本原子力産業会議の森一久が居る。広島での被爆者にして、湯川の弟子であり、人生の大半を原子力推進に捧げた人物である。折しも、毎日新聞に連載されていた「原子の森、深く」が大幅加筆の上、゛湯川博士、原爆投下を知っていたのですか:〝最後の弟子〟森一久の被爆と原子力人生゛として書籍化されたばかりである。
 森一久に関しては、特に電力と政府の関係について言及した部分をまとめたいのだが、新書を読む時間がなかなか取れないので、手持ちの資料から抜粋する*1。今回も、ニュアンスが伝わるように対話形式から抜粋している。

森一久 オーラルヒストリー
第一回(2007/3/26 14:00-16:00)
p.22
■原子力談話会(昭和27年頃)
  
 それが契機になってだんだん、原子力の在り方について、ジャーナリストとして発言するようになったわけですね。仲間が、大学の助手だとか講師クラスになっていましたから、僕がいろいろな人と相談して、「原子力談話会」を組織しました。そして、湯川さん、朝永〔振一郎〕さんなどから五千円ずつ金を取って、夏休みに富士山の精進湖の小学校の講堂を借りまして、一週間みんなで勉強し合う会を開きました。理論は誰がしゃべる、廃熱の話は誰がしゃべる、ということをやったんです。「原子力談話会」は、賛成・反対は別にして、とにかく原子力についての科学的事実や外国の情報を正確に知った上での行動をとるべきだ、ということで、ただ勉強会をやりましょうというものでした。
 おそらく産業界の連中は、なんだかアカが集まって勉強しているというぐらいに見ていたと思うんです。しかしたまたま、日本発送電を解体するとき、昭和二十六年にお金が一億ほど残ったんですね。それまでは国営一社だったわけですが、それが九電力、純民営になった。しかし、消費者の利益を保護しなければいけないし、電力が公正に生産されなければいけない。そういうことを研究するために電力経済研究所をつくったんです。それで日発の最後の総裁の小坂順造さんが理事長になって、橋本さんを引っ張り込んだんですね。

伊藤 橋本清之助さんですね。なんで橋本さんなんですか。

 それは後藤文夫が推薦したんですね、元内務大臣の。それで、「日本も被爆国といえども原子力平和利用の研究を早急に始めるべきである」という声明を、電力経済研究所が出したんですね。大いに原子力をやれ、ということに近いものを出したわけです。それが新聞に出たわけですね。これは放っておけない。原子力談話会として、けしからんと抗議に行くべきであるといって、コンプレインに行ったわけです。それが丸ピルのすぐ近くの、赤煉瓦の仲十二号館です。
 行ってみたら、何か知らないけれど、おじいさんがたくさん集まって、孟子か老子を朗読しているんですね。納骨堂なんて僕らは悪口を言っていたんだけれど、納骨堂みたいな暗いところにいるわけです。それで出てきたのが、いまの橋本清之助、津野田知重、それから早川〔淳一〕さんという事務局長の三人だった。それで「けしからん。日本としてこれだけ大きな犠牲を経ているのに、いまから原子力をやるから真剣に勉強しなければいけない段階なのに、だいたい、金儲けの種にするのはけしからん」と言ったら、橋本さんが、「ちょっと待ってくれ。自分たちは、自分自身も含めて、軍部が悪いとかなんとか言い訳をしてみても、結局、ある意味では自分たちが日本を駄目にしてしまった。原子力というものをちゃんと使うことによって、日本の復興に少しでも役に立つのなら犬馬の労を取りたいと思って言っているんだ。君たちも、そんな反対をしているよりも、中に入って、間違いのないようにやるべきじゃないか」と言うわけです。「冗談じゃないですよ。どうせ私らはアカだとかなんだとか言って、入れてくれるわけはない」と言ったら、「そんなことはない、原子力基本法というのをつくって、誰でも参加できる体制を組もうという話に、中曽根〔康弘〕なども賛成してくれているんだ」と言う。
 ということで、わいわいやっているうちに、ミイラ取りがミイラになって、橋本さんと僕が原子力産業会議をやることになってしまったわけです。

伊藤 ちょっと待ってください、そのときは中央公論の社員なんですか。
  もちろんそうです。中央公論と仲何号館だから近いんですよ、歩いて二分くらい。皮肉なことに。しかもその事務局長の早川さんというのは、宮城県の統計課長で執筆を頼んだこともあり、昔から知っていたんです。「あなた、なんでこんなところにいるんだ?」と言ったら、「いや、原子力をやれと言われて困っているんだ。とにかく翻訳でも見てくださいよ」という話だった。それで丸ビルと赤煉瓦は、すぐ隣のようなものですからね。だから五時過ぎにはそこに行って翻訳を直してあげたりしていたわけです。
 そうこうしているうちに、電源開発株式会社ができたときで、佐久間ダムを造る。そして原子力室を置いて、その専門家を雇わなければいかん。だから推薦してくれ、というので、何人かを僕が推薦して、入れたわけです。そこで研究を始めたわけです。
 それで、いま書いているんですが、民間で国家管理アレルギーみたいなものを持っている九電力が、「原子力はやらざるを得ない、放っておくと国がやるぞ」ということで、重い腰を上げたわけです。とくに松永安左エ門さんなども、「原子力なんかに手を出したら火傷をするぞ」と言っていたんですから。それを電発が勉強するというのだから、「放っておくわけにはいかん、また国管時代が来たら大変だ」ということで、腰を上げたわけです。しかも、そこまで先を読んで、やった人もいたらしいんです。橋本さんはそんな変な気持ちはないし、国営だ、民営だなんて、そんなつまらんことはどっちでもいいんです。橋本さんにとっては、ちゃんとやってくれればいい。そういうことなんですね。そういう点でも運命的なんですな、考えてみると。

伊藤 中央公論の社員というのはかなり自由なんですね。
 だいたいジャーナリストというのは自由ですよ。やることさえやっていれば。
伊藤 やることをやらなければ。そっちのほうはどうだったんですか
 だからいまのように、売れ行きを悪くしたという意味ではまずいけれど、そうでない限りはかなりユニークなことをやっていましたよ。いま頃でも、私が学者と引っ張り出して書かせた人の息子なんかが訪ねてきて、「おやじが森さんに世話になったそうで」なんて言いに来る人がいますよ(笑い)。湯川さんの記事なんかも、載せたほうがいいと思うときは電話一本で引き受けてくれたし、そういう点は良かったですね。
伊藤 
 さっきおっしゃった編集長だって替わっているんでしょう。
 私が辞めるまで同じでした。粕谷一希なんてご存知ですか。あの人が入った年に、私が辞めましたが。〔電発に〕二、三人入れて、私もあまり二足の草鞋では困るという気持になった。そのとき電源開発は第二鉄鋼ビルにあったものですから、ちょっと丸ビルからは遠い。辞めたのが三十一年です。嶋中鵬二が送別会をやってくれたのは覚えています。それで電源開発に入ったのが三月一日。二日には原子力産業会議に出向ということで、原産のほうにいって、橋本さんとこう〔一緒に〕なったわけです。

p.24
■中央公論社の人々
伊藤 中央公論にいらっしゃった時期に、湯川さんはもちろんそうでしょうが、執筆者との〔お付き合いはありましたか〕。
 それは仁科芳雄だとか。それこそ、蓮見喜一郎なんていうのは変わり者だけれど、そうでなく、作家など有名人とはずいぶんつき合いました。
伊藤 それは『自然』ですね。
 そうです。と同時に、家内なんかは十五、六歳で受付に座っているものだから、谷崎潤一郎だとかなんだとかに、みんな可愛がってもらいましたね。わりと苦労した子で、十五、六の頃からおふくろさんを養っていて、僕なんかより人間的にずいぶん練れているし、頑丈ですけれどね。それと、結局組合運動なんか一緒にやっているうちに!。そうそう、そのうち組合の委員長みたいなことになったんですよ。
伊藤 何かいろいろやっていますね(笑い)。
 あの頃はとにかく、「ジャーナリズムというのは普通の生産会社とは違うから、特別な労使関係があって然るべし。だから経営協議会をつくれ」といって、一月に一回経営者と組合代表で経営問題を話し合う会をもち、その中では給与の話もする。僕はその経営協議会の社員側の代表か何かでやっていた。そうこうしているうちに、岩波や何かに話して、「出版組合連合」をつくろうじゃないかということになりましたが、それは結局うまく行きませんでした。
伊藤 左翼組合ですか。
 思想的には、僕を共産党だと思って、一目置いてくれて助かりましたけれどね。
伊藤 それはどういう意味ですか。
  言うことがあまりにラジカルだから、あれは共産党にちがいないといって、共産党のほうの人が一目置いてくれた。当時、なかなか共産党同士というのは互にはわからないらしいですからね。共産党系のやつは、僕の言うことをよく聞いてくれましたよ。だから原子力に反対の中でも、共産党系は「原子力はやらなければいかん、大事だ。やり方がけしからん」というんですね。社会党のほうは、「原子力そのものが人類と相容れない」という理念でした。だから原子力反対の中でも、中島篤之助だとか、まともな反対派はずいぶん僕に協力してくれました。
 社会党系も、そのうちに、このあいだ亡くなった高木仁三郎なんていうのは友達になりました。奥さんの里が私の家の近くだったり、変なことばかり起きました。「森さんの家はしょっちゅう通る。うちの家内の里が隣です」と言うんだ。「ああそうか、僕の家があまり汚いから僕を信用しているんだね」と言ったら、「それもありますな」なんて言っていた(笑い)。高木仁三郎はご存知でしょう。早くガンで死んだけれど。

【コメント】
 この中島篤之助への評価の高さが、原産会議の容共姿勢につながり、ひいては赤い原研騒動につながったと言うのは、決して言い過ぎでないと思う。当時はまともな反対派であったかもしれないが、共産党は共産党である。当時の党中央の方針がさほど国策からずれていなかっただけだろう。ルイセンコ学説の跋扈や土法高炉の失敗を忘れてはならない。少なくとも、これまでの各国の共産党政権では、科学的真理に関することでも党中央が決めたことに異論を差し挟む余地はなかった。日本共産党にだけ特別な自由があるとは到底思えない。

p.25
■電力会社の「国管」アレルギー
 いまの電力経済研究所というのはこのあいだ解散。できて五十六年になるわけですが、そのままずっと置いであったわけです。原子力産業会議を生んだときには、橋本さん自身もその責任者として行ったし、事務局の大部分も行きました。そのあとは小坂善太郎だとか小坂徳三郎だとか、小坂一家が替わって理事長になって、ときどき理事会だと称して鰻をご馳走してくれる。あるいは、ときどき大事なときには津野田さんなんかは、いろんな人に手を貸したり、それこそ東京十ニチャンネルをつくったり、科学技術館をつくったのもそれだったんです。そういう意味のある仕事をずいぶんやっていました。
 結局、休眠財団ではないけれど、なんとかしたほうがいいと思っていたところに、ちょうど小坂の系統で今井隆吉ってご存知かどうか、元軍縮大使をしていた人なんですが、結局小坂善太郎あたりと従兄弟になる人なんですが、その人と一緒になって、「それじゃあ森さん、解散しましょうや」ということになって、解散事務をこのあいだ終えたところなんです。
 その歴史を書こうということになったら、書ける人がいないわけです。最後の理事長・今井隆吉は少々くたびれているし、誰が誰だということなど、いまその最終のところを書いているんですが、その中で「国管アレルギーとエネルギー産業」というのを、随筆ではないんだけれど、評論として書いているんですね。やはり、国管アレルギーというのはものすごかったんです。戦前、〔電力会社は〕何百社とあったわけですね。福沢論吉以来電力会社は全国に雨後の竹の子のようにできた。みんなそれぞれやっていたところに、戦争だからいきなりパッと一社になれといって、社長が百人から一人にされたわけでしょう。だから骨の髄までしみていたわけです。それが、占領軍のおかげで民営化できた。さあもう一回それが来たら大変だ、そうかといって通産省の許認可はあるわけですから、実に奇妙な関係でした。
 現に元・日発系の人で、九民間電力会社に移った役員のうちで、社長になったのはただ一人、藤波収という北海道電力の社長になった人です。この人にも私は可愛がってもらった。福沢諭吉の孫の親戚になる人なんですけれど、九州の人でした。それぐらい差別して、日発から九電力の幹部になった人はその人しかいない。その代わり、佐久間ダムは民間なんかでできないといって、御母衣〔みぼろ〕ダムだの佐久間ダムを電源開発がやるわけですね。なにくそ、民間だってやれるぞというので、黒部ダムなど、むきになってやって成し遂げたわけですね。だから必ずしもマイナスばかりではない。
 その代わり、特に原子力のように、国の関与なしにはやれないものについては、実に奇妙な働きをするわけです。政府が中心になって原子力開発をやらなければいかん、日本独自の原子炉を設計しなければいかん、ということには反対できないわけですね。それじゃあ予算も足りないだろうから、民関が出資しろといい、出資してやろうというので、発言力がある。そうすると内容も気になる。成功されては困るし、失敗されたら困る。そういうことで、いままで商業化まで成功したものは何もないわけです。成功し始めると、「そんなもの、ここからあとは民間がやるから」と言って持っていくわけです。結局、何千億という金で何十年にわたってやったけれど、一つも成功したものはない。電力が悪いだけではないけれど、実に奇妙な関係なんです。
 それはどういう役割を果たしているか、その功罪を書いているんです。いまだにありますからね。だから通産省の人でいい人を副社長に迎えたり、いわゆる天下り的なことをずいぶんやっていますが、経営の中には決して入れません。実に巧妙にやっていて、お互いにわかっているんです。そのあいだ五十何年間、要するに原価主義で、原価プラス六%という適正利潤が保証されているんですからね。こんな企業は世の中にないわけです。だから人間は中々育っていないけれど、そういうタクティクスだけはあるわけですね。
 だから本当に原子力をやると無責任体制になるわけです。結局、東大の原子力を出ても、原子力の技術を勉強しようという気はあまりないから、何かあったらメーカーを呼びつけて、「おい、事件が起きたからちょっと見に来てくれ。どういうことだ」と言う。こういうことだったと言われると、「じゃあそれを文書にしてくれ。役所に説明しに行くときのために一問一答をつくって、模擬解答をつくって、その説明に来てくれ」というように、みんなメーカーが面倒を見るわけです。だから電力会社の原子力屋は、自嘲的に「自分は電話技術者だ」と言っている人もいるぐらいです。
 そういうことを今日まで重ねてきた結果が、昨今起きているようなことなんです。そうかといって、国営でうまく行くとは、いまの官僚を考えると、思えません。しかしあの当時の官僚は立派だったわけです。それだけに怖かったわけですね。そのへんのことについて、一回ぜひご意見を伺いたい。

伊藤 初めて聞きましたが、「国管アレルギー」というんですね。
 僕が使っている言葉です。とにかくそういうことで、先生も歴史をやられると、その時代、時代の「空気」というものがあるでしょう。その空気というものは、決して表に出して口で言わないでしょう。日本は特にそうですし、特に現在はそうですね。だから、なんでこんなときにこういう変な判断をしたのか、ということがわからないわけですね。
 「国営か民営か」の大論争のときも大変だったわけです。原子力のような長期的でしかもリスクの大きいものは国が主体となるべきだ、というのはもっともらしいですね。しかし民間の協力がなければ駄自だといって押し通したあげく、結局、正力〔松太郎〕が勝って、河野一郎が負けた。原子力発電株式会社が二割出資で、政府の二割出資でつくったというのは、妥協してきたわけですね。そういう空気がわからないと、わからないんですね。このあいだの話ではないけれど、聖徳太子がなぜ死んだかというのは、聖徳太子の時代の「空気」がわからなければ分析のしょうがないですね。常識だから言わないわけです。
 いままでの電力関係の史書などで、「国管アレルギー」なんていうことを書いたものは一冊もないですよ。もっともらしいことが書いてある社史を読んでも、そんなことは何も書いてない。こういう人が社長になって、こうなって、通産省の特別な許可が出て、こういうことができて、値上げをして経営を建て直したとかいうきれい事が書いてあるだけで、何も書いてないわけでしょう。そういう意味で、「国管アレルギー」という言葉を残すことだけでも意味があると思って、電力経済史の中の終わりの章に、私の責任でこの章は書いたということを明記して、書こうと思っているんです。


p.29
■小坂、正力、中曽根
 プロ野球と日本テレビと原子力と、正力にとってはみんな「同列」なんですね。だから原子力委員会でいきなり、「もう研究なんか必要ない、早く輸入すればいいんだ」と言ってしまって、湯川さんは怒って、初日に「辞める」と言い出したんですよ。
伊藤 でもこの人の役割も、原子力平和利用の問題に関して言えば、大きいわけでしょう。
 それは大きかった。やはりあれだけ火をつけたんですからね。副総理で、しかもほかの大臣なんか絶対に引き受けない、原子力委員長だけを引き受けると言ったんですから。
伊藤 中曽根さんはどうですか。
  中曽根さんは真面自にやった人ですね。
伊藤 初期からそうですか。
 ええ、非常に早い時期からよく米国に勉強にも行った。それでこのあいだ私が入院中で髭ぼうぼうの時に、TBSテレビがピデオを撮りに来て、「私は中曽根さんというのは政治家としてはよく知らないけれど、原子力については一種の「畏れ」を持っていただけに、非常に幅広く人知を尽くして開発するという体制をつくった功績がある」と言ったわけです。それをこのあいだ、荻野アンナが中曽根との対談で僕のしゃべりを使ったんですよ〔〇六年十一月二十五日BS-i、荻野アカデミア/原子力の証言者五十年を語る・中曽根康弘元首相出演〕。そこだけ使いよったんです。ほかのことも言っているんですけれどね。
 その延長が、先ほど言ったTBSの話になるんです。そのTBSはBSだったんですけれどね。そのときに〔荻野アンナが〕「森さんがこういうことを言っていますが」と言ったら、〔中曽根氏は〕もちろん僕のことはよく知っているはずなんですが、ちょっとびっくりしていましたね。「ああ、森さんがそう言っていたか。私はこういう気持ちでやった」と言って、わりにそれに合ったようなことを言っていました。「原子力というのはいままでなかったもので」ということを言っていました。それがいまのような原子力平和利用三原則、つまり思想如何に拘わらず誰でも参加できるという法律でしょう。その当時はアカ狩りの最中でしたから、思想の如何を問わずに誰でも参加できると原子力基本法の第一条に書こうと決断したのは、やっぱり彼らしい考えがあったんですね。中曽根さんのおやじのほうですね。

伊藤 中曽根さん自身も、そのことについてはだいぶ語ってくださいました。
  あれも内務省だったから、橋本さんが育てたようなものらしいですね。だから何かあれば電話一本かければ片付くというようなことが何度かあったかもしれません。
【コメント】
ここでも橋本清之助か…
*1 森一久(元日本原子力産業会議副会長)オーラルヒストリー、近代日本史料研究会、2008.1

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# by ferreira_c | 2016-06-09 12:44 | 原子力 | Trackback(1) | Comments(0)

何故、原子力の研究機関は統廃合されたか? (3)赤い原研(その4)島村武久の回想

 いろいろと原研労使関係の歪みに関わる部分を書いてきたが、島村武久元科学技術庁原子力局長の回想が最もバランスが取れた物になっている*1。今までさんざん引用した記述と重なるが、対話方式になっている部分をそのまま引用した。多分その方がニュアンスを伝えられると思う。

【管理能力の欠如で「原研」に見切り】
川上  歴史的な評価は今はできないとしても、被害を受けたのは原研だと思うんです。一番はっきりしてるのは、原研が自分の研究目標をなかなか絞れない。日本の国産炉は重水炉もあれば、黒鉛炉もあれば軽水炉もあるという状況の中で、どこに目標を絞ったらいいか。産業界が突っ走ってるけど、それに関わる研究もうまくできないということで欲求不満な感じになった。その結果、ストに次ぐストという状況が生まれたわけです。あのへんはどのように見ておられますか。
島村  今は時代を超越して一緒に評価するような傾向があると思うんですが、あの当時は、今日考えるように、原研に対する冷遇と言いますか、そういうのがなかった時なんですよ。
川上  冷遇というと・・・。
島村  動燃事業団で炉の開発が切り離して行われるようになったり、原研に対する予算が思うようにつかないというようなことですが、私が言うのはそんな状況になる以前のことですよ。赤旗が立ったりなんかしたら、大きな炉の開発など任せられないということで冷遇されることになった。
川上  そこは分かるんですけど。
島村  赤旗が立ったのは、その冷遇に不満だから立ったわけじゃないと思うんです。
川上  赤旗が立ったからいけないというのは結果であって、菊池さんは責任をとってお辞めになったわけですが、ああいう事態を招いたというのは、研究者がどんな立場に置かれていたかの一つの象徴的な表れじゃないかという気がするんですが。
島村  人によっていろいろ見方があると思うが、私の考え方からいうとこれも時代の違いなんですよ。今のように、戦後の余波が残っていて、当たりの柔らかい共産党時代じゃないわけです。原研については、原子力基本法の精神にのっとり思想や主義信条を超えて民主的にということで、人を集めたでしょ。共産党系の人たちもたくさん入り込んだわけです。それは原研だけが悪いわけじゃなくて、世間にもそういう風潮があったわけです。国会にも共産党が出てたでしょ。
 そういう時ですから、新設の機関ですし、弱いところがありますよね。そこに経営上のいろんなむずかしさがあったんじゃないでしょうか。強く要求すれば経営者は聞かざるをえないということになってくると、ますます強くなるという傾向もありますね。それで赤旗が立たん時はないみたいな形になっていったわけでしょ。そうすると原研に対する世間の信頼がなくなってくる。そんなところに大金はつけられんと。新しいプロジェクトが出てくると、それは原研に任せるわけにはいかん、ということにもなってきたんじゃないでしょうか。

川上  あの事態で、最終的に国会で問題になって、日本としての動力炉開発の目標を立てなきゃいかんという流れになっていったわけですね。それで動力炉開発懇談会が設置されて、動燃の発足につながっていくわけです。そのへんの流れは正しかったんで、原研問題の底にあったものがチャンと処理されて、日本の新型炉開発の戦略が必要だということで、それが動力炉開発懇談会から出ていくわけですけど。
島村  その頃私は原子力局にいたんです。原子力委員じゃないから大きなことは言えないんですが、研究目標を何にするか、如何なる炉の開発に取り組むかは、原子力研究所の研究者の創意に待つべきことだと思っていました。
 今日みたいに軽水炉が世界を風びするような時代じゃなかったんですよ。アメリカは軽水炉というやり方が一番いいといって一生懸命やってる。イギリスはコールダーホールでございます、ガス炉が一番いい、それを基にまだまだ発展させていくという意気込みでしょ。カナダを見たら、アメリカの隣にいるくせにアメリカの影響を全然受けずに、豊富な天然ウランを利用してCANDU炉に邁進してるでしょ。インドはインドで、結局は物になってないけど、インドに豊富にあるトリウムを利用して、トリウム炉の開発をやるんだと。インド独自の道を行ってるでしょ。
 日本の原子力委員会は、究極の目標は増殖炉だと言っているけれど、これからやろうとしてる原研の研究者の討議、創意にまって、日本の開発すべき炉はこれだ、という目標を出してもらって、それに向かって頑張ってもらうことが必要じゃなかろうか。それを原研にお願いしたわけなんです。

川上  最初は、たしかに原研の中で一年間ぐらい検討されましたね。
島村  嵯峨根さんが副理事長をやっておられる頃、嵯峨根さんの懇望によって西堀さんが原研に入られたわけです。南極越冬隊長をやっておられて、帰られてすぐ原研の理事になられました。しばらくたって、半均質炉構想が原研から出て来ましたが、これは西堀さんの発案であり、西堀さんの命名されたものということでした。
川上  それは原研が行き詰まる少し前ですね。
島村  そうです。イギリスからコッククロフト卿が来たときに、嵯峨根さんが新聞記者会見でそれを発表されたわけです。そして原子力委員会にも、これでやりたいと説明があった。原子力委員会では早速それを取り上げて、三六年の長期計画には相当の行数を割いて、半均質炉を謳い上げたわけです。日本の開発すべき炉として、これからやるんだということで。うまくいったら何年にはこうしてこうしてというところの計画まで載せてあるわけです。ところがそれがうまくいかなかった。
 その時は菊池さんが理事長になっておられました。私は菊池先生とは性格も違うし専門も違うんですけど、菊池先生が非常に買ってくださって、しょっちゅう原子力局の私の部屋に来ておられましたが、半均質炉については原研内部がまとまらんので、とてもやれないと言っておられました。
 私なりに判断すると、西堀先生はポンポンとアイディアが出る方なんですね。原研のよくできる人たちを集めて、半均質炉プロジェクトについていろいろやっておられたんですが、はじめ冷却材にヘリウムガスを使うことになっていたのを途中からビスマスを使うと言いだされて、それで分裂しちゃったらしい。ヘリウムでやろうという構想で進んでいる間はまだよかったんだけど。そういうことで原研の中で分裂自壊しちゃった。そこで原研には任せておけないので原子力委員会が、日本で開発すべき炉はどうするかということを取り上げた。

川上  あの時は私も原産にいて調査に行ったんです。その時気がついたことは、今までああいう大きなプロジェクトをやった経験がないので、プロジェクトを遂行するための管理手法がなかったということです。
島村  私もいろんな機会に感ずるんですけど。日本的ですね。外国とは違うんですよ。特に私が感心したのはフランスです。フランスでは、例えばCEA直属のマルクールなどで研究してる人たちも、今自分がやってるものは、いついつになったらコジェマのラ・アーグの計画に入るんだとか、みんな必要なスケジュール表をもってるわけです。各機関のスケジュールは複雑に絡みあってるんですが、全体としては整合性をもっていて垣根も何もないんです。
 ところが日本は、通産省、科学技術庁なんてしょっちゅう言われてるけど、それだけじゃなくて、原研の中でも最初からそれがあるんです。しかも原子力基本法で、学者の意見が三原則として取り入れられたという背景がまだなまなましい時ですからね。自主というか民主というか、研究は自分の好きなことがやれるという雰囲気なんです。大学の研究室の雰囲気が持ち込まれたというか、めいめいがやりたいことをやっていて、大きなプロジェクトに対して協力し合うということがないように見えた。

川上  それは、原研の設立当初、大学の研究者が大勢入ったこととも関係があります。とにかくそういう経験の過程を通らないと、到達できなかったんですね。
島村  それが川上先生のおっしゃる意味で、研究者の不満があったでしょうけど、研究者の不満といえば、研究上の問題の外に待遇の問題で、宣伝と事実が違うという点もあったんですよ。非常に優遇されるという評判だったけど、来てみたらそんなことはないじゃないかということもあったんです。私は、優秀な人を集めなければ原研はうまくいかない。そういう人をたくさん集め、研究に没頭してもらうためには待遇もよくしなきゃいかんと思っていました。
川上  最初、そういう問題がありましたね。特殊法人になったのも、それと関連がありましたね。
島村  そうなんですよ、国立研究機関の待遇ではだめだということもあったんです。研究者の人件費は三割増しの予算を要求して取ってきたんですけど、それを原研に渡したら、同じ釜の飯を食うのだからといって、研究者も事務方も平等に割っちゃったんです。男も女も。
 それでも他の国立の機関に比べればはるかに高いけど、研究者はもっといいつもりで来てるから、不満なわけですな。
それを完全に統率しえなかったという理事者の責任もあるでしょう。何しろ日本にあれだけの大きな研究所というものはなかった。初めての経験ですから、どのような経営管理の手法をとればよいのかも分からず最初からうまくいかなかった。そこに日本人的風土というものもありますからね?

川上  三〇年代は、いろいろとそういうことで過ぎて、原子力委員会の動力炉開発懇談会の結論で新型炉の戦略が立ったとき、原研ではなしに新事業団(動燃)で、ということになったわけですが、十年間苦労をして、やっとわが国の今の戦略ができた、そのいきさつは忘れてはならんでしょうね。

*1 島村武久の原子力談義、島村 武久、川上 幸一、エネルギーフォーラム、1987年3月、105ページより
【補足】
 JPDR初送電後の昭和38年11月15日に全貌の記者が原研東海研を訪れている[全貌、昭和39年1月号、954ページより]。食堂ビルの壁面には各種労組、団体からの激励電報が約60本ほど掲示されていたらしい。代表例として新聞労連からの檄電を引用しておく。
『アメリカドクセントセイフザイカイガグルニナッタクミアイダンアツヲユルサズガンバレ」ゲンシリョクヲヘイワノタメニ」ポラリスキコウハンタイタタカイヲサラニツヨメヨウ」シンブンロウレン』

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# by ferreira_c | 2016-05-11 20:12 | 原子力 | Trackback | Comments(0)


blogに名を借りたほぼ月記。軍学者兵頭二十八に私淑するエンジニア。さる業界所属ゆえにフェレイラと名乗る。
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