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原子力船「むつ」の開発体制~西ドイツの本気度との違い~

 原子力船「むつ」の失敗の原因は「技術的な困難さだけではなく開発体制」にあったことは既に広く言われているが*1、ほぼ同時期に原子力船オットー・ハーンを作り上げた旧西ドイツの開発体制と比較するとより理解できる。
 旧西ドイツは、単に原子力船を作るだけでなく、原子力船建造運航利用会社(GKSS)を設立した上で、総合的な研究開発を行うこととした。原子力船オットー・ハーン等の建造自体は、アメリカの民間原子力船サバンナ号を作ったバブコック・アンド・ウィルコックス(B&W)社との間に合弁会社バブコック・インターアトム社を作り、この会社をGKSSが指導しながら行った*3。また、原子力船においては、原子炉の遮へいは経済性と安全性に係る重要な因子であるために、原子炉製作に先立って遮へい実験を行う必要がある。GKSSは1956年に設立され、1958年にはB&W社が建造した出力5MWのスイミングプール炉が臨界となり、遮へい実験が開始された*3。
 日本の場合、国内において海運、造船界の原子力船に対する関心が大いに高まり、1958年10月には原子力船開発研究を推進するための社団法人日本原子力船研究協会が設立され、同協会は12月初めに政府に対して原子力船開発方針の明示、その開発研究に対する助成策の確立、原子力実験船の構組の確立、原子炉関係技術の早期導入等について要望を行うほどであった*4。1963年に日本原子力船開発事業団(原船団)が設立され、1965年7月から1967年6月にかけて、日本原子力研究所(原研)のJRR-4を用いた原研、原船団、船舶技術研究所の三者による遮へい共同実験が行われた*5。ここまで書くと、日本は西ドイツのやり方に準じており、特に問題ないように見えるが、GKSSと原船団の体制では大きな違いがあった。まず、原船団は専従職員ではなく、造船会社、重工業の会社からの出向職員の占める割合が大きかった。原船団の設立時には、日本原子力船研究協会から職員を割愛したようであるが、その時の原船団設立に関わった人々の意識としては、"蒸気タービン動かす熱源が原子炉になっただけ"というもので、船舶用原子炉開発の困難さには思い至らなかったのではないか? あるいは、明治以来脈々と続いてきた日本式技術導入路線に則って、船舶用原子炉は外国から導入すれば良いと軽く考えていたように思えてならない。
「まず(原船団の設立のために)人集めから仕事にかかったわけだが、幸い日本原子力船研究協会のメンバーに目をつけ、そのなかから大学を卒業してから五年、すぐ役に立つ人で、二、三年の出向でいいからということで、三十人ほど集めた」*6
 日本と西ドイツの本気度の違いは、下表に示すようにGKSSと原船団の人員割合に現れている*2。特に、驚くべきは研究者、技術者の割合の違いである。なお、ウィキペディア英語版によれば、オットー・ハーン号は科学者のための船室(36人分)だけでなく、大小の会議室や実験室(二室)まで備えていたそうである*7。

表 GKSSと原船団の人員構成比較*2





組織※科学者技術者乗組員その他
GKSS8323692228
原船団-133397


※GKSSは1972年当時、原船団は1975年当時(但し、構成員のかなりの割合は出向職員)

 その後の原船団、「むつ」のたどった運命はいろいろと書かれているので詳述しない。八千万円かけたウエスチング・ハウス(WH)社による原子炉のチェック・アンド・レビューで指摘された遮へいの問題を無視し、JRR-4を用いた遮へい実験で得られていた中性子線のストリーミング現象のデータも見逃すことになる*8。また、WH社のチェック・アンド・レビューに対する原船団幹部の態度については言い訳の仕様がない。特に、このblogで度々言及してきた西堀榮三郎の言葉については何も語れることはない*8。
「メーカーは、たとえ米国の専門家による設計のチェック・アンド・レビューがなくとも、充分安全に確実に、原子炉を作る自信があるといっているのに、どうしてこんなに、日本の技術を信頼してもらえないのだろうか。明治百年の間に培われた外国依存の精神は、余りにも根強いので、暖い心で日本の技術を育ててやろうという気持ちを忘れたかに思われる。」
(「技術への信頼」西堀栄三郎事業団理事)
「基本設計についても、WHのチェック・アンド・レビューを受ける受けないで原子力委員会で激しい協議がかわされ、意に反して受けることになったが、実質的にはあまり効果なく、むしろ安心料を払っただけ。」
(甘利昂一「原子力船特集号によせて」舶用機関学会誌)

 また、今となっては真偽は定かではないけれども、原船団の言い分も触れておきたい*9。原船団の技術者たちがWH社に打合せと見学をかねて出かけようとしたところ、工場に入ることを拒否され、すべて三菱原子力工業を通しての間接的コミュニケーションしかできなかったようである。WH社の遮へいに関するコメントも、原船団の技術部長にさえ届いていなかったらしい。また、原研での共同実験についても、原研は原船団に対して協力的ではなく、遮へい実験も原子炉をつくるためではなく、ただ自分の論文づくりのためという印象をあったようだ。このような状態でプロジェクトがうまく運ぶはずがない。
 ちなみに、原子力委員会の原子力船専門部会が1959年に答申した「原子力船開発研究として適当な船種、船型および炉の選定について」に対して、当時の科学技術庁長官は次のようなコメントを残している*10。
「外国ではほとんどいきなり大型の原子力船を試作している。日本も、船体、炉ともに国産でいきたい」
 この長官がその後の全ての詳細な段取りを決めたわけではないが、原子力船自体の完成を急ぐあまり、原型炉の試作も、陸上での実験も行なわれなかった。大蔵省の中にさえ「陸上での実験をしなくて大丈夫か」という意見もあったが、科学技術庁も原船団も拙速を顧みなかった。1964年10月に行われた造船審議会において、「我が国では原子力船の開発で最も重要な船舶用原子炉の開発がほとんど行なわれていない」と警告が発せられたが、走り出した原子力船建造の流れを押しとどめることはできなかった。
 この長官は、後年内閣総理大臣に昇り詰めたが、総理の任期中であった1984年1月17日に自民党科学技術部会にて「むつ」廃船が決定された。この長官こそ誰あろう、第72代内閣総理大臣中曽根康弘である。果たして、彼は「むつ」に対してどれほどの思い入れ、責任を感じていたのだろうか?

*1 「むつ」放射線漏れ問題調査報告書、放射線漏れ問題調査委員会、1975
[URL] http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/ugoki/geppou/V20/N05/197524V20N05.html
*2 原子力船「むつ」問題を解明する、日本科学者会議・原子力問題研究委員会、日本原子力研究所労働組合共編、日本科学者会議、1976、p.12
*3 欧米における原子力船開発の現状、日本原子力産業会議、1960、p.49
[URL] http://www.lib.jaif.or.jp/library/report/chosadan5060/chousadan5060-7430.pdf
*4 昭和33~34年版原子力白書、第5章原子力船 1.原子力船開発の状況より、原子力委員会、1960
[URL] http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/hakusho/wp1958/sb20501.htm
*5 *2のp.37
*6 日本の原子力-15年のあゆみ-(上)、日本原子力産業会議、p.252、1971
*7 オットー・ハーン(原子力船)(Wikipedia英語版より)
 [URL] http://en.wikipedia.org/wiki/Otto_Hahn_(ship)
*8 原子力船「むつ」、倉沢治雄、現代書館、1988、p.188
*9 原子力戦争、田原総一朗、筑摩書房、2011、p.47、p.104
*10 *8のp.174
by ferreira_c | 2014-02-20 19:33 | 原子力 | Comments(0)
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blogに名を借りたほぼ月記。軍学者兵頭二十八に私淑するエンジニア。さる業界所属ゆえにフェレイラと名乗る。

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