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橋本清之助、またの名を陰の原子力委員長~(1)ジイサンと呼ばれた男~

 1971年度の仁科記念賞受賞者である原子核物理学者の森永晴彦は、1957年9月に約6年の海外滞在を終えて東北大学の助教授に着任した*1、2。その頃の森永は、東北大学でベータトロンを用いた実験を行うとともに、西東京市にあった東京大学原子核研究所や、大学時代の恩師である嵯峨根遼吉が所長を務めていた東海村の日本原子力研究所(原研)の共同利用施設でも研究をしていたという。あるとき、懇意となっていた嵯峨根研のスタッフH氏から「おまえの先生、東海村をクビになるぞ」と言われた。原研の(労働)組合新聞には以下の戯れ歌のような記事が載っていたという。

空ではグラマン・ロッキード
陸ではGE・ウェスティングハウス
チャンチャンバラバラ結局は
サガネが撃ち落とされるらしい


この記事が書かれた時期は明記されていなかったが、話の前後からすると1959年の晩夏か初秋頃と推察される。戯れ歌の内容は、原研が導入する予定の動力試験炉の型式がゼネラル・エレクトリック(GE)が開発した沸騰水型(BWR)か、あるいはウェスティングハウスが開発した加圧水型(PWR)かどちらかに決まる前に繰り広げられた壮絶な両陣営の売りこみ競争を自衛隊用主力戦闘機の売りこみ競争と比較して揶揄したものであり、どちらに決まるにしても嵯峨根所長が引責辞任させられるのではないかという事を示唆していた*3、4。
 あまりにも理不尽な師の境遇に悲憤慷慨していた森永を見かねたH氏は
「原子力の本当の黒幕は所内の人が恐れている(科学技術庁)原子力局なんかではなく、『ジイサン』なのだから、彼に直接文句を言ったらいいじゃないか、彼は若い人の話でも聞いてくれる」
とアドバイスした。
 この『ジイサン』こそが、かつては日本の”陰の原子力委員長”と呼ばれ*5、茨城県東海村を”日本(原子力の)メッカ”に仕上げる基礎を築いた人物であり*6、”日本原子力界の陰のプロデューサー”として隠然たる力を発揮しつづけ*7、”原子力産業の育ての親”とまで言われた、日本原子力産業会議(原産会議)の事務局長にして常任理事だった橋本清之助その人であった*8、9。『ジイサン』という愛称は他の原子力関連文献でも見受けられる*10、11。また、田原総一朗のドキュメンタリー風小説である「原子力戦争」にも橋本の要素をイメージしたと思われる「貴族の館」の老人が登場する*12。ちなみに、当時の原産会議の影響力は以下のようであったという*13。

 実質上原子力政策を牛耳っているのが原子力産業会議であることはすでに常識化している。原子力大臣が最初にあいさつに来るのは原子力産業会議橋本清之助事務局長のところであるし、原子力委や原子力局の人事などの重要事項は当の役所より産業会議の方で先に知っていることなどめずらしいことではない。

 その後、森永はH氏を通じて橋本清之助と面会することに成功した。そして以下のようなやり取りがあったという。

 ジイサンは「故郷はどこじゃ」「何でサガネのところで働かないのか」というような質問のあと、私の話を聞いてくれた。こんなかけがえのない、唯一の専門知識とアメリカの指導者たちとのコンタクトまで持った学者を下ろそうとするなど、とんでもない。世界のどの先進国を見たって、その国の原子力研究所の所長は、みな自力でこの道を切り開いた人がやっていると言うと、ジイサンは、
「お前は将棋を指すか」
と聞いてきた。
「ルールくらいは知っています」
と答えると、
「王は先に出ていくか」
「イヤ、歩が先に出ます」
「サガネは先に出よる。サガネが日本にとってかけがえのない男だということはよくわかっている。心配するな。お前の言うことはよくわかっている」
 と、丸められてしまい、当時としては、貧乏な大学の先生の入るところではなかった隣の第一ホテルでごちそうになった。
 いったい、どうわかってくれたのかと思っていると、一週間ほどして、新聞に「日本原子力研究所東海研究所長嵯峨根遼吉博士辞任後任は東大原子核研究所長菊池正士教授」という記事が出た。これにはまったくギャフンであった。


 私はこの本*3を発売直後に読んだ。311の13年前である。当時は『ジイサン』が誰を指しているのかも全く見当がつかなかったが、311以降に読んだ本によって橋本清之助の存在を知った。ただ、正力松太郎の知己であったという事から、大概の本では児玉誉士夫や笹川良一のようなフィクサー的人物として描かれており、最初に受けた印象と若干違っていた。間違っても『ジイサン』という、多少なりとも愛着のこもった別称が付けられるイメージではなかった。
 先日読んだ本の中に、森永が経験したエピソードを思わせる記述があったので備忘のため記しておく*14。

 橋本にとって、高度な技術内容を伴う原子力というものは、それまでの国の命運に関わった政界トップ(翼賛政治会事務局長、勅撰の貴族院議員等々)での経験を超える難解さと複雑さだったにちがいない。17歳から静岡民友新聞、時事新報(ドイツ特派員)のジャーナリストを勤め、理解力・時代感覚・人脈に富む橋本は、人の話、これはと思う人、特に若い人からの「本当の話」を寸刻を惜しんでよく聞いた。そのため、事務所内外でいつも(役人をふくむ)誰かと会い、新しいヒントを求めて議論を仕掛けていた。
 初期の原産が公式・非公式に提案した法律や計画の多くは、これらの人の原案を元にして橋本事務局長が手をいれ、さらにいろんな人に意見を濁き、推敵して作りあげたものが多い。


 どうやら単なるフィクサーでは括りにくい人物である。また、間違いなく日本の原子力創世記に多大なる影響力を持っていた人物であるので、今後も調査を継続したい。

*1 仁科記念賞、原子核物理とその応用に関し、優れた研究業績をあげた比較的若い研究者を表彰するもの
[URL]http://www.nishina-mf.or.jp/prize.html
*2 原子炉を眠らせ、太陽を呼び覚ませ、森永晴彦、草思社、1997、p.47、※嵯峨根所長は1959年9月22日付けで退任
*3 日本原子力研究所史、日本原子力研究所、2005、p.8 ※原研では1957 年12 月、小型動力試験炉を導入するため理事長の諮問機関として動力試験炉委員会が設置され,濃縮ウランを燃料とする軽水型動力試験炉を早期に導入することが決定された。
*4 不思議な国の原子力、河合武、角川新書、1961、p.63 ※原子力の「グラマン・ロッキード」、「クーデターはくい止めたが・・・」参照、BWR、PWR両陣営の暗闘が記述されている。特に自らが不利と考えたBWR陣営(三井系)は二人の代議士の働きかけによって、原子力委員、原研理事など、原子力界上層部を一挙に更迭しようという「クーデター」を企画した模様。これは原子力委員会等のディフェンスによって阻止された。しかし、結局はBWRが選定された。筆者はBWR陣営の働きかけが功を奏したのではないかと暗にほのめかしている
*5 ドキュメント原子力政策、石川欽也、電力新報社、1987、p.53
*6 原子力委員会の闘い、石川欽也、電力新報社、1983、p.125
*7 ドキュメント東京電力("ドキュメント東京電力企画室"(1986)を改題、再販)、田原総一朗、文春文庫、2011、p.27
*8 それでも日本人は原発を選んだ、朝日新聞取材班、朝日新聞出版、2014、p.137
*9 橋本清之助Wikipediaより
[url]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E6%B8%85%E4%B9%8B%E5%8A%A9
*10 わが職業は死の灰の運び屋、佐久間隆、創隆社、1986、p.82
*11 原発メルトダウンへの道、NHK ETV特集取材班、新潮社、2013、p.124
*12 原子力戦争、田原総一朗、筑摩書房、2011(1976年出版本の再販)、p.32
*13 文献4のp.76
*14 原産半世紀のカレンダー、森一久編、日本原子力産業会議、2002、p.9

テレビ雑記
by ferreira_c | 2014-06-27 18:12 | 原子力 | Comments(0)
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blogに名を借りたほぼ月記。軍学者兵頭二十八に私淑するエンジニア。さる業界所属ゆえにフェレイラと名乗る。

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