負ケラレマセン勝ツマデハ



遂に武力出動す~反戦反共四十年 渡辺銕蔵~

 さて、いよいよ東宝争議のクライマックスである。今回の一連のトピックスにおいて、「東宝争議を弾圧した側」の視点から書いてきたが、一重に弾圧された側の視点で記されたものが多かったからである。戦前、日本が一気にナチスに靡くなかで、ほぼ独り正論を述べ、闘い続けていた渡辺銕蔵が一方的な弾圧者であることは信じがたかったことも書き始めた動機の一つである。
 しかし、争議に加わった一般の東宝社員には大いに同情すべきところもある。戦後すぐに撮影所に乗り込んできたGHQの民間情報教育局映画演劇課長だったコンデに促されて労働組合を作り*1、どちらかと言うと左翼的な映画制作を指導され、それが普通と思っていたら、いつの間にか撮影所に共産党が出入りするようになり、最後はほぼ開戦直前のような緊迫した状況まで追い込まれたと言う経験は、まさに狐につままれたような感じだったのではないか? このような様々な外部環境変化によるGHQ方針転換の余波で一変した状況に戸惑う人々は多かったことであろう。何となく、似たような状況が戦後の学生運動、特に全共闘世代の頃まで存在した気がする。しかし、一度おかしな方向へ走り出した大きな流れは、個人の力でなかなか止められるものではない。コモンセンスで有名なトマス・ペインの言葉が胸に響く*2。
「悪いこととは思いもせずに 何かを長く続けてくれば それがまともな姿に見えて 誰かが口にだそうものなら 死守せんものと立ち上がる」
 この言葉は常に刻んでおかねばならない。「運動」は危うい。山本夏彦も言ったように「キャンペーンならみんな眉つば」と心しておかねばなるまい。そういう意味で、近頃は多少迷走はしているけれども、薬害エイズ訴訟に全面的に協力し、原告団勝訴後、運動に協力した学生ボランティアが、政治団体に取り込まれつつあるときに、「ボランティアの役目は終わった。後はプロフェッショナルの仕事であり、学生は日常へ復帰して、現場に出てプロの仕事をして、次の薬害を防げ!」と堂々と主張した小林よしのりの凄みはもっと語り継がれるべきであろう*3。
 前置きがずいぶん長くなってしまった以下に引用する。
<以下引用>
 その翌日八月十三日思ひがけなく裁判所の仮処分が決定された。そこで翌十四日三宅正太郎弁護士と春田定雄弁護士と執達吏三名は四、五名の警官が附添って砧の撮影所へ仮処分の執行に向った。然るに日映演組合側は門を閉してこれを内に入れず、土屋の闘争委員長は執行者が一歩でも撮影所内に入れれば直に撮影所を焼払ふと威嚇し、春田弁護士の二十号大の写真に黒枠をはめて之を差上げ「春田を殺せ」「春田を殺せ」と怒号してをる。執行官も警官も施す術なくすごすごと退却した。
<引用終わり>
 黒枠写真を掲げる、これも伝統か? いつ頃から始まったのであろうか?
<以下引用>
 日本では労働争議や団体交渉の際は、外国では当然犯罪行為と認められる行為や、到底想像も出来ぬ乱暴な行為があっても咎められぬ。当時京都の裁判所の労働争議に関する裁判の法廷で、或弁護士が労働争議行為であれば放火をしても殺人をしても罪にはならぬ。と弁論をしてをることが法律新聞に載ってをった。全く日本の労働者の争議行為はスターリンの暴虐行為の如く神聖視されてをり法律や政府以上のものであった。
<引用終わり>
 この辺りの記述も、最近関西辺りを中心にネット上では騒がれているが、地上波テレビや新聞では報道しない自由が行使されている労働争議問題を思い起こさせる。日本はあまり変わってないのだろうか?
<以下引用>
 しかし、この事情を知って占領軍司令部が始めて怒り出した。先づ三宅正太郎弁護士が呼び付けられ、更に警視総監が呼び出されて、諸君は法廷侮辱をいふことを知ってをるか、日本の憲法は何のためにあるのかとひどく油を絞られた上、力が足りなければ助力すると言はれて、始めて日本の官憲が再度の仮処分執行に着手した。
 昭和二十三年八月十九日は日本の労働運動史上始めて見る、武力出動の重大な事態が起った。
約二千名の警官が数十台のトラックに分乗し、八台の戦車と一台のブルトーザ、一台の放送車が午前九時砧撮影所に到着し之を包囲した。又数台の戦車と米国軍隊が附近に待機してをった。第八軍騎兵隊所属の某少将が二台の飛行機で上空から監察してをる。行為は労働争議行為ではない。騒擾罪に該当する故速に退去すべき旨を印刷して飛行機より撒布し、放送車で所内に伝達したが一向に聞入れぬ。全く二・二六事件の有様そっくりである。執行官は已むを得ず正午十二時までに退去せざる時は実力を行使する旨を伝達した。しかし内部は頑強に拒否し、二人の女優が泣いて死守を叫んだそうであるが、最後まで頑張ったのは結局朝鮮人連盟であったとのことである。しかし十二時五分前に包囲陣は遂にブルトーザを正門前に向けて突破の姿勢を採り、戦車の砲門を所内に向けて威嚇の態度を示した時、始めて所内の労組は続々と退去を開始した。そして無事に撮影所の接収を終ることができたのである。この大袈裟な武力の展開によって、全く血を見ずして公務の執行を終り得たものと思ふ。
 それから間も無く私は衆議院の公聴会に呼ばれた。徳田球一が立ち上がって、東宝は武力をもって労働者を圧迫したではないか。と私につめよった。私はとんでも無い東宝は武力などは持っていない。
君達が労働組合を煽動して労組が騒擾罪に当るような事をやったり、公務執行を妨害するから、官憲が武力までも用ひざるを得ないようになったのである。秩序維持は政府の責任である。私には関係は無い。責任は騒がせた君の方にあると答へた。
 六月頃司令部の労働課に呼ばれて、争議の解決に援助はいらぬかと聞かれたことがあるが、私は自力で解決すると答へた。八月十九日の武力仮処分執行は弁護士執達吏と官憲は前日承知していたであらうが、私は当日事の進行中に始めて知ったのである。
 仮処分の執行は終わったが、撮影所内に労組の事務所を置くことを
許されたため、共産系の日映演と反共系の全映演の対立があったり、又頻々として仮処分違反行為があった。末弘委員長の労働委員会も何等の調停案の決定を為し得なかったので、八月末私は撮影所の日映演は主として政治運動を行ふ、超国家的団体であるとして、労働組合法第二条、第十五条及び極東委員会指令の労働十六原則の第十四項を引用して「日本映画演劇労働組合東京支部東宝撮影所分会」の解散命令を委員会に申請したが、之も進捗を見なかった。かくて仮処分執行後二ヶ月間も、もみ合っている内に、十月の中旬日映演が突如として争議終結を申入れて来た。そこで十八日会社側と日映演の最高幹部が徹夜会議を続けた結果、組合幹部はさきに会社側が提示した諸条件を受諾する旨申入れ、翌十九日会社と日映演と正式交渉を開始し「争議解決に関する覚書」に調印するに至った。争議開始後二百日にしてさしもの大争議も漸く妥結を見るに至ったのである。
 争議解決に関する覚書十項中の重な条項
(一)組合は会社の経営形態、規模、生産計画、所要人員に関する一切の権限は経営者に属することを認める。但し会社は組合員の労働権を尊重し、生活権に対し十分な理解を与えることを約束する。
(二)組合は日映演に所属する従業員についても会社の整理案を一応承認することを前提とし、次の処理を速に行ふことに同意する。
(1)全国を通じて組合幹部は自発的に会社に辞表を提出する。
(2)撮影所については左の通りとする。(略)
(五)組合は会社の撮影所再建案を承認する。
(七)会社は社内の平和と秩序を保持するために、事業場内における政治活動に対し必要な制限を加へる。
 
かように急転直下解決を見るに至ったことは、闘争組合員の生活が困難になった事、反共組合の勢力が漸次拡大して来たこと、東宝の崩壊を憂ふる者が増加したこと等によるものと思ふ。最終の段階における日映演組合の幹部が、先づ自己を犠牲にして争議の終結を図った態度は立派であった。
<引用終わり>
 最後は生活費が続かなかったのではと渡辺は解説しているが、それまでの費用はどこから出ていたのだろうか? 労組同士のカンパか? しかし千人単位及びその家族の生活となると、到底カンパで賄えなかったのではないか? となると、日共を経由した外国政府の資金と考えた方が良いのではなかろうか?

*1 D・W・W・コンデ
*2 トマス・ペイン
*3 小林よしのり

# by ferreira_c | 2019-02-23 04:02 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

はかどらぬ労委の調停~反戦反共四十年 渡辺銕蔵~


 さて、膠着状態に陥った東宝争議であったが、ついに東京都の労働委員会の調停が始まった。以下はその様子。
<以下引用>
 大手町の労働委員会の事務所に出頭すると、階下階上すべての壁面には余す所なきまでに「東京都労働事務局日本共産党細胞」の宣言や宣誓文がべたべたと貼り廻されてある。法廷に準ずるこの建物の内のこの醜態を見て、私はどこの世界にこんな馬鹿らしいことがあるだらうと呆れ返った。調停の行はれる室内に入らうとすると、二十坪ほどの室の大部分を共産党が占領して赤旗を振り、インターを高唱してをる。私はあまりの馬鹿らしさに引返して、調停委員長である末弘厳太郎君に面会して、あの暴状では会議はできぬ。彼等を追払って呉れと言った。末弘君はそれは誠に相済まぬと言って、あの短躯を調停室に運んで、君達静かにしろと言ふと、それは鶴の一声であったらしい。直ちに旗を収め静かになった。
<引用終わり>
 渡辺が関連した読売新聞、東宝での労働争議において、労組側は渡辺を威圧するときには赤旗を振り、インターナショナルを高唱する*1。何となく長野オリンピック時の聖火リレーにおける大量の国旗を伴った中国人暴動や先般成田国際空港で起こった航空機トラブルの際に抗議を表明するために国家を大合唱した中国人を思いだす。旗と歌は、共産主義というか全体主義の共通項なのだろうか?
<以下引用>
 中立、使用者側、労働者側各三人の調停委員中労働者側の委員三人は何れも最も有力なぱりぱりの共産党員であった。私が前に関係した読売新聞の争議調停と言ひ、この度の争議調停と言ひ、当時は労働者側の代表委員はすべて共産党員に限られたものと見える。委員会の経過は自ら明である。組合側も労働側委員も共産党員を解雇するのは違反だと言ふ。私は砧撮影所の従業員六割が共産党系であり、労働組合役員五十名中、四十八人まで共産党員であるから、企業整備をする場合、多数の共産党員が整理されるのは已を得ないと主張した。何回会議してもらちが明かぬ。その内渋谷の労働基準局から出頭せよと言ふ。私が行くと役人が労働基準法第三条に国籍、信条によって差別をするなとある。東宝が共産党員を解雇するのは違法だと言ふ。私はたゞ共産党員だから解雇するのではない、彼等は経営を妨害し、会社の命令を聞かぬから解雇するのだと釈明し、始末書を取られて帰った。
 当時解雇に関する争議がある場合、自由党や社会党関係の者が解雇されても、社会党員を解雇することは労働基準法第三条違反だとして騒いだ例を聞いたことが無い。たゞ共産党員だけが、この規定を楯にとるのである。労働基準法第三条は事実において単に共産党員擁護のための規定となってをる。現在でも共産党系の組合の会社との団体契約の条文の初めの方には必づこの労働基準法第三条の国籍と信条によって差別せずと言ふ文句が入れられてある。黒人や異人種の多い米国ではこんな規定も必要なことがあるかも知れぬが、日本では無用であり、極めて有害である。皮肉にも米国のアラバマ大学では、最近黒人女学生を追出すため全校大騒ぎをしてをる。日本でもこんな馬鹿げた規定は明日から廃止したらよい。
 労働委員会の調停は一向にはかどらず、撮影所は共産党に占領されて、利用の見込み立たぬため、会社側は木村篤太郎、三宅正太郎、春田定雄其他の弁護士を代理として、五月十一日東京裁判所に対して、会社の所有権及び経営権確認に関する瑕疵分の申請を行った。裁判所は新村裁判長の下に二回ほど会社側と労組側の申分を聴取ったが、申請書提出後三か月を経ても何等の決定を行って呉れない。私は業をにやしてをった所八月十二日に三回目の呼出しがあった。出頭すると新村裁判長と数名の陪席判事列席の上訊問が始まったが、問答は前回と同じで一歩も進まぬ。会社側は私と木村篤太郎弁護士と外二名ほどであったと思ふが、労組側は闘争委員十名ほど全部共産党員で、その弁護士は自由法曹団の者十数名である。私は問答五分間ほどの後これでは全く埒があかぬと考へ急に立上って発言した。『今回の争議は事実は労働争議ではない。共産党との戦ひであります。こゝにをる労組代表は全部共産党員であります。その後に居られる弁護士の方々も失礼ながら共産党員若くはそのシンパであると思ふ。そして砧の撮影所は百日以上に亘って共産党に占領されてをるが、警察も政府も何ともして呉れませぬ。都の労働委員会も、此間何等の調停の案を示さず、渋谷の労働基準局は共産党員の解雇を擁護せんとし、頼みとした裁判所も亦、三か月に亘って何等の決定が与へられませぬ。斯の如きでは日本の産業の経営は到底成りたちませぬ。私はこの労働争議に関する限り、日本は無政府状態であると思ひます。よって私は今日はこれで失礼さしていただきます。そして私は全国の新聞紙に広告を出してこの実情を訴へ、全国の心ある青年に向って何月何日宮城前の広場に集合することを求めますれば、必づ数万人の青年が参集すると存じます。私は幸にして馬術の心得があります。当日馬上にまたがってこの青年を指揮し、砧の撮影所に乗込み、実力をもって共産党員を追出したいと思ひます。』と述べた。或ひは怒るかも知れぬと思った新村裁判長は私の顔を見ながら苦笑をして、渡辺さん短気を起してはいけませぬ。しかし、今日これ以上話をしても無駄でしょう。それでは今日はこれで終ることゝ致しましょうと言った。
<引用終わり>
 この後、いよいよ東宝争議のクライマックスを迎えることになる。まさに決戦の様相を呈してきた。

*1 インターナショナルとは社会主義・共産主義を代表する曲。旧ソ連では1917年~1944年まで国家となっていた。






# by ferreira_c | 2019-02-21 04:07 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

撮影所を占拠さる~反戦反共四十年 渡辺銕蔵~

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 協議の結果、会社側は直ちに二百七十名の解雇通知を発送し、企業整備案を断行する旨を通達した。これに対して、日映演組合は一括して解雇通知を返却したので、会社は直ちに企業整備案を組合が受諾しない時は五月一日より撮影所の閉鎖を行う旨を組合に通達し、結局工場閉鎖を断行した。さて、その後の顛末は以下のとおり。
<以下引用>
 これからが大騒ぎである。日映演組合員は勿論、東芝、国鉄、全逓、電産、日化、日通其他産別傘下の各組合及び朝鮮人連盟、神奈川県共産党支部等の応援団が二千名内外も撮影所に入って之を占拠した。徳田球一、志賀義雄等の共産党幹部は、平素砧撮影所に来て読書会を催してをったが、徳田球一は屡々所内に来て争議団に対する激励演説を行ひ、諸君は革命家としての使命を忘れてはならぬと煽動する。東京都議会議員岩田英一は連日争議団の陣頭指揮を行った。日本共産党撮影所細胞機関紙「星」は活発な宣伝活動を開始し、所内及び東宝全体に宣伝文を撒布する。徳田の二十三年五月十六日の演説に次いで、七月二十二日は野坂参三も来て全経営と全町村に組織を拡大せよと激励する。日映演の宣伝ポスターはしない至る所に貼付けられ、渡辺は会社の金数百万円を猫ババして選挙資金に充てようとしてをるとか、日本一の極悪非道の人非人とか、それがだんだん昇格して、世界一とか、人類始まって以来といふように漸次に激しい文句のポスターが貼られる。電車の駅から私の宅まで五百メートルの間の電柱には、すべてそれが貼ってあるから私の宅を訪問する人は道を訪ねる必要はない。
<引用終わり>
 実際のポスターは写真のとおりである。文面は“人相決定版”として
「東宝二、〇〇〇人のクビキリを請負った人非人、ファッショの残党、民主主義の破カイ者、日本文化の敵独裁主義者、御注意! 此の男が町内に住んでいます!」
となり、戦争罪人小林一三ワタナベテツゾヲの文字も見える。
 これらの個人攻撃により家族がノイローゼになるほどであったらしい*1。
<以下引用>
共産党の戦術は虚言、中傷、詐術、いかなる反道徳のことでも平気でやる。始めは癪にさはったが、後には滑稽になって来た。一々名誉棄損で検事局へ訴へたがてんで取合って呉れない。全国の産別組合や青年共産党から、会社や私の自宅へ脅迫状が山の如く送られて来る。最も執拗なのは電産であった。九州、北陸、関東等連日やってくる。就中御念の入ったのは電産利根分会であって、各地域毎に各班の決議を引続いて送ってくる。こちらもだんだん慣れて来たので当時紙欠乏の時代であったから、それを読まずに小さく切って便所の用紙に使った。四月八日に浅田健三が全国の産別の攻撃をもって私を脅かそうとしたのは、結局撮影所を産別組合で占領することと、このような戦術とであったのである。
 しかし撮影所のありさまは物々しい。鉄条網を張り廻らし、要所には鹿柴を設け、隣地より入り込み易い所はビール瓶のかけらや竹槍が植付けてある。スタヂオの入口にはギロチンと称して大きな木材を横たへ、之を切って落とす仕掛けがある。屋上に煉瓦や小石が積んであり、大きな箱に砂と灰をまぜて入れ、大きな扇風器で目つぶしを呉れる装置がある。豆戦車と称して十数台のリヤーカーに五寸釘を打ち込んで突貫をする積りらしい。大きな棚の無い本箱様のものを作って、これに多数の五寸釘を打ち、之を相手にかぶせる積りらしい。いかにも子供らしいが之が彼等の戦闘準備である。つまり日本共産党とはこの程度の頭である。彼等は彼等の宣伝紙によって窺はれるように、この争議を革命にまで持込む期待をもっていたようである。然るに六月の初め頃と思ふが伊太利の総選挙があった。彼等は共産党の勝利を期待してをったものらしく、此日は特に二千数百名の各産別共産党が撮影所に詰めかけて短波のラジオでその結果を聞いてをったが、共産党が敗北したので彼等は失望した。もしこの総選挙に伊太利共産党が勝ったならば、彼等はこの争議を革命的に持って行く期待を増したかも知れぬ。
<引用終わり>
 確かに、ここでイタリアの総選挙で共産党が勝利していたら、一気に世情は不穏化していたかもしれない。この辺りの機微は是非他の文献等でも確かめたいところである。
<以下引用>
 ある日、今日は外部の応援が少いと聞いたので、単身密かに撮影所に入りこんで見廻り、或建物の三階にある女優の大部屋をのぞくと大の男が十数名寝そべってをる。君等は何者かと聞くと茨城県の教員組合の者だと答へる。教員までがこの争議の応援に参加してをるのかと私は全く情けなくなった。大食堂の中に全国の青年共産党から来た激励文が貼り廻らしてあると聞いたので、それをのぞきに行くと、とうとう日映演の者に見付かり社長が来たぞと怒鳴る。忽にして東芝の応援団と共に数百人でスクラムを組んで私を取り巻いてしまった。私を真中に直径十メートル程の円陣を作って幾重にもスクラムを組み赤旗を振り、インターを高唱する。耳を聾せんばかりである。年輩の男が「おい皆社長の顔を覚えてをけ」と言ひながら五、六人で私の写真を撮る。闇の夜もあるぜと言はんばかりである。
<引用終わり>
 この後、渡辺は怪我などを負うことなく何とか囲みから脱出を果たしたが、撮影所の占拠はそのまま続行された。しかし、原研でも社員食堂にあちこちの労組からの激励文が貼ってあったという。これは共産党の特性なのだろうか?
<以下引用>
 その後撮影所の中は益々騒がしくなり、産別各組合の応援団は昼夜交代して所内に駐屯し、早朝と夕方の交代時には赤旗の回りを一巡して之に敬礼して交代してをった。所員元陸軍大尉の戸田金作が青年共産党員に軍隊的訓練を施し、状況に応じて友好団体を非常招集する手筈が綿密に定めてある。撮影所の入口には踏み石と称するものを置いて、それに私と馬淵君の顔を描き出入毎にそれを踏んで行く。カメラ部と照明部に三人づゝの青共党員が社長襲撃の任務を帯びているといふ物騒な情報も入ってくる。側面では盛んに資金カンパが行はれた「日本文化を守る会」といふのが作られ、有楽町の「日本新聞放送労組」宛で入会申込を受けてをる。常時大蔵省の全財及び全銀連等も幹部は共産党員であったから、銀行の労組のカンパ資金までも撮影所に流れ込み、東宝が日劇を担保に或銀行から数千万円の借入の約定が成立してをった所、其の銀行の労組の反対で解消されたこともある。四面楚歌の中に私は戦ひを進めた。
<引用終わり>
 踏み石とは恐れ入る、というか子供じみているというべきか・・・。

*1 全貌 昭和40年8月号、p.60、“戦車に蹴ちらされた東宝争議”




# by ferreira_c | 2019-02-19 23:39 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

雑誌全貌 昭和41年1月号 小汀利得・連載対談第106回<金東祚大使>摘録

 昔、全貌という雑誌があった。いわゆる反共雑誌である*1。赤い原研騒動の調査のためにバックナンバーを読んでいたのだが、折々に興味深い記事があったのでスクラップしてきた。今日はその中の韓国関連の記事を取り上げる。標題の小汀利得と言っても分かる人はごく少数であろう*2。今はほぼ左巻きの番組となってしまったTBSの時事放談の初代パーソナリティであった。対談相手の金東祚は韓国の初代駐日大使であり、外務大臣まで昇りつめた韓国の政治家である*3。
 さて、全貌であるが反共雑誌であるだけに、非常に韓国に好意的な仕上がりの記事になっている。それは編集部の導入から見ても強く感じる。

<以下引用>
 金大使は流暢な日本語で決意を語った。小汀氏は若い国の若い外交官の熱弁の聞き役にまわった。これからは過去を水に流して仲よくしてゆきたい。韓国は新しい国です、朝鮮人といった嫌やな差別的な眼でみないでほしい。金大使は好感のもてるサッパリした言葉で切々と国情を訴えた。小汀氏は終始うなづきながら耳を傾けた。金大使の共産主義に対する一歩も引かない強い態度がとくに印象的だった。(編集部)
<引用終わり>

 思うに共産主義という主敵がいたからこそ、余計にとりあえず仲良くしなければという意識が両国に働いたのだろう。日韓基本条約締結直後ということもあり、タイトルはずばり”賠償金はガラス張りで使う”である。まず”賠償金”という言葉に引っかかってしまうが、実は金大使は”無償供与の金”という言葉を使っている。反共であり保守反動とも言われた全貌でさえ見出しに”賠償金”という言葉を使ってしまう時代だったのだろう。また、日本語を流暢に話す外国人には、昔も今も日本人は弱いというのは気のせいだろうか? 記事は日韓基本条約、在日朝鮮人問題等を中心に進んでいく。

<以下引用>
金大使 九大を出てはじめ厚生省で事務官をしていたんですが、終戦になってすぐ本国へ帰りました*4。新しい国ですからね、韓国としては古手の外交官ということになります。日韓交渉は十四年かかったといいますが、私は日韓国交正常化にこぎつけるまでは、これは半世紀かかった仕事だと思うんですよ。一九〇五年に外交権を日本に委ねて、いま一九六〇年でしょう。半世紀にして日本と韓国の国交正常化する、という方が正しい表現じゃないかと思うんです。
小汀 なるほど。
金大使 ところが日本国にも韓国にも国民の一部にこんどの条約について、なにか疑惑をもっている、秘密の取決め、諒解事項があるんじゃないかということを考えている人びとがあるようですが、これはなにもない。それこそ硝子張りの交渉をして、まったく正真正銘の交渉であって、秘密の取引もなにもない。
 お国の野党の一部の人がその辺のところをとやかくいうんですけど、交渉の総責任をとった、私じしん外交官として誇りをもって、自信をもってこのことは断言したいと思っております。
小汀 そりゃそうでしょう。韓国内にもそういう疑いの目でみるむきがあるんですか。
 だいたい秘密のやりとりなんかする必要はないんですからね。
金大使 秘密なんかあったら長つづきしません。一時的に時の政権を握った相手とうまくやれたとしてもそんなものはすぐ化の皮が剥がれます。国と民族の理解と支持を得る両国民が条文を読んでも納得できるものでなければ長つづきしません。
小汀 それはまったくそうですね。
<引用終わり>

 冒頭からいろいろ思うところはあるのだが、淡々と引用していくこととする。

<以下引用>
小汀 これは北朝鮮の憲法にあるそうですが、北朝鮮では、親日分子の財産は没収するとあるそうですね。そんなことまで堂々と憲法に規定しているというんですからね、とてもこれと国交正常化どころじゃありませんよ。
金大使 ハ、ハ、ハ、そうですよ。
小汀 ところが日本のジャーナリズムも少々おかしいんで、日韓交渉に反対する韓国野党とか学生の少数の動きをさもさも大反対しているかのように報道してくるんですね。だからこっちは、韓国でもそんなに反対なのかな、おかしいなと、よく調べてみると、たいしたことはない、ほんの一部の動きなんですね。どうも進歩的文化人とか左巻きジャーナリストってのはよく連携をとってましてね、国際的規模で工作してるようですよ。その点自由陣営ってのは呑気にできてますからね。
金大使 ~中略~ 私の方も一九五〇年の朝鮮動乱以前は、相当なインテリも共産主義といえば土地改革者とか社会改革者ぐらいに考えて、北朝鮮といえども鬼でもなければ喰人種でもない、外国の支配をうけるより同じ韓国人同志手を握れという考えをもっていたものでした。ところがいざ北から不意打ちをかけられ、釜山を中心とした狭い三角地帯を残して北朝鮮に占領されると、みんなはじめて気がついた。結局共産主義は、観念的にわれわれが考えていた共産主義とはまったく違うんだ。北に住んでいる共産党は韓国人ではない、中共やソ連と同じことだ、という認識を国民みながもったんです。そしてわれわれ韓国国民は反共国家としてやっていかなければならんと決したわけです。
<引用終わり>

 さすがに憲法には書かなかったが、韓国でも北朝鮮に遅れること約40年で「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」を制定し、1904-1945年の間に親日分子と認定された者が作った財産は没収されることとなった。この法律が制定された時点で、日本は国交関係を早急に見直すべきであった。共産主義に関する認識は朝鮮戦争を経験したからこそであろう。本筋とは関係ないが、昭和41年の時点で左巻きと言う単語があり、今でも通じているのが感慨深い。
 この後の部分に、日本に対してノリを買ってくれとの発言があるが、金大使は駐日大使として着任した時のエピソードと重なる*3。信任状捧呈式のために皇居にやってきた際、外務省儀典長が「あなたは九州帝大出身だから、日本語でやられるでしょ」と言うと、金大使は「いや、オレは英語でやる」と答えたらしい。捧呈が終わって昭和天皇は金大使と雑談している。近づいてみると金大使が日本語で「陛下、もう少し韓国の海苔を買ってください」と場違いな注文をしていたようだ・・・。

<以下引用>
金大使 私の好きな言葉で申しますと、日本は前向きの姿勢でやっていただきたい。そういう日本の積極性が韓国国民に働きかけて、排日や敵対政策よりは、親日的で国交正常化の方がいいんだという認識を植付けると思うんです。請求権の取扱い方もガラス張りのきれいな運営の仕方によってやり、三億ドルの無償供与の金も、あれは日本国民の納める税金から出てくる金だこれを経済開発にガラス張りに使って、日本国民に、三億ドルが役に立ってよかったという結果をもたらすように、そういう経済協力の実をあげることがこんどの条約の本当の意義だと思うわけで、それがまた日韓両国に将来利益をもたらすものと思う。
小汀 その通りですね。
<引用終わり>

 三億ドルは漢江の奇跡の原動力にはなったろうが、果たしてどれほど韓国国民に感謝されたのだろうか?

<以下引用>
金大使 いろいろ先生に申上げますが、私の願うところは日韓両国民が本当に理解し、親戚付合い関係を作り上げることが両国のためにも最もよいことだという信念をおわかりいただきたいためであります。とにかくいま身近かに韓国人六十万人がおくににおります。思想を異にする北朝鮮総連は韓国と日本を破壊することをねらっている団体ですからこれに対する警戒心は一層つよくしていただくことは申すまでもないことですが、それ以外の韓国人の法的問題についても、形だけで法的地位じゃなく、この韓国人は日本の社会にあったまじめに働き、日本の社会の役にも立っているのだという見地から韓国人の地位を正当に認めてほしいと思います。そりゃ外国人ですから公職につくとか代議士に立つとかということはできませんが、少くとも社会人として、人間として公正な取扱いをしてもらいたい。たとえば大学を出て就職するとき、事業家が事業資金の融資をうけるとき、条約文でいくら差別待遇しないと書いても、社会が韓国人を差別したら条約は反故になります。もともと差別しなければわざわざ条約文にうたう必要もないかもしれません。一般外国人と同じようにしてもらう、だが、さらに親戚の間柄なんだということを日本人が考えてくれて扱ってくれるように、指導してもらいたいとお願いするわけです。
小汀 わかりました。ときに、正確には韓国人は日本にどのくらいいるんでしょうかね。
金大使 五十八万登録されてます。モグリが二、三十万いるようですね。
小汀 モグリ?
金大使 モグリというのは終戦前日本に住んでいた人で、戦後本国においてある家族の様子を見てこようと帰国して、本国では生活の見通しが立たずまた日本に帰ってきた韓国人。軍政下でしたから自由にできたんです。密航者です。一九五二年の日本の主権回復しアメリカの軍政が解かれたとき、軍政時代韓国へ行き来したのは帳消し、いまから申請しろということになった。日本の実力者とか偉い人を知っている者は特別に何とか方法を講じて申請したが、それ以外のものは外国人登録もせずに潜っているわけです。これらを合わせるとかれこれ百万くらいいるだろうと思う。
小汀 なるほど。
金大使 登録する際にこういうことがありましたよ。韓国は国籍、朝鮮というのは符号でしょう、日本人なら外国人登録するのに日本人で問題はないんですが、韓国人は日本に支配されていた当時から朝鮮人といわれてきた。独立して朝鮮というのはなくなって韓半島というんです。北は北朝鮮といってますがこれ一つでしょう。朝鮮という言葉には、日本の植民地として支配を受けた当時の嫌なものがある。支那人に対して支那人というとき、馬鹿にした気持ちは毛頭なくても、言われる方はいやな感じで中国人といわれた方がいいというでしょう。日本人は朝鮮人というとき、別に馬鹿にして言うわけじゃなくても韓国人はいやな漢字をもたざるをえない。そこで外国人登録のさい、ハッキリ韓国人と国籍を記帳する人がいた。学問や思想的にハッキリしているものは韓国と書く。なかには、かつて日本人だったもので韓国と書くべきか朝鮮と書くべきかわからない人もいたんですね。窓口をとり扱うものが、君は朝鮮か、ときくと、はいと答え、それで朝鮮人になってしまったものも多かった。韓国人でありながら朝鮮人になっている人がいるわけです。
小汀 うーん。
金大使 北朝鮮総連では、朝鮮人と書いたものは全部自分の方だと宣伝しているんですよ。
小汀 無理矢理に北の団員にしてしまったわけですか。
金大使 日本にいる約百万の九割七分まで南韓国に本籍をもっている。それが、外国人登録の際の不注意で二十万も朝鮮人になり、この朝鮮国籍をしょっている人びとが朝鮮総連の支持者のレッテルを貼られているわけです。
小汀 なるほど。そういうことは日本人にはよくわからないからPRしてほしいですね。現実に思想運動やっている人でも韓国人か朝鮮人かわからないのが現状ですからね。
<引用終わり>

 この時点で韓国大使が自ら在日朝鮮(韓国)人の由来をはっきり述べている。これがどうやったら強制連行神話に成長するのか? やはり間違っていることはその都度指摘しなければならなかったのだろう。
 以上、備忘まで。

*1 全貌社とは
*2 小汀利得

*3 金東祚

*4 金東祚略歴、1918年釜山生まれ、1940年ソウル高商卒、1943年高等文官試験合格、同年九州帝国大学法学部卒業。1951年外務部政務局長、1952年駐中韓国大使館参事官、1956年UN総会韓国代表、1957年外務部次官、1964年貿易振興公社総裁、同年駐日韓国代表となる。


# by ferreira_c | 2019-02-14 04:50 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

連載記事「核融合トリチウム研究最前線ー原型炉実現に向けて」について調べてみた

 最近、日本原子力学会誌においてトリチウムの連載記事が書かれていることを知った。トリチウムと言っても、もちろん福島の問題ではなく核融合のトリチウムである。連載タイトルは以下のとおり。2018年7月から一年間の長期連載だ。
「核融合トリチウム研究最前線ー原型炉実現に向けて」
 ここでいう原型炉とは、いま話題の国際熱核融合実験炉(ITER)の次のステップの炉である。先日のブログで核融合実験装置JT-60SAの記事でトリチウムの表記が無く、三重水素が放射性物質であることも明記されていないことに触れたが*1、最前線のトリチウム研究者はどう表現しているのか確認してみた。まず、トリチウムの表現で㎏、g、mg、Bqのどれを何回用いているのか、次にgとBqの換算係数が書かれているかどうか、また福島のトリチウムに触れているかどうかをカウントし、各記事の特徴的な表現を抜粋した。

「核融合炉の安全性とトリチウム」、日本原子力学会誌2018年7月号pp.404-408、㎏6回、g5回、mg1回、Bq2回
ITERではトリチウム1日450g消費、循環量は20倍、核融合炉では高純度のトリチウム燃料(DT:約50GBq/cm3)をサイト内で常時数kg循環して取り扱う
トリチウム450g=162,000TBq=162PBq、循環量162*20=3.24EBq、Bq2回言及のうち1回は排出濃度の法的基準値の紹介
「原型炉に向けたトリチウムバランスの考え方」、日本原子力学会誌2018年8月号、pp.488-492、㎏6回、g7回
初期装荷トリチウム27kg、核融合炉起動に最小限必要なトリチウム量3kg
トリチウム27kg=9,720,000TBq=9.72EBq、トリチウム3kg=1.08EBq
「トリチウムの調達方法」、日本原子力学会誌2018年9月号、pp.567-573、㎏4回、g5回
従来トリチウムの製造はカナダのCANDU(重水減速重水冷却)炉で担ってきた。日本に製造手段が無いので大洗にあるHTTR(高温工学試験研究炉)の利用を提案。HTTR連続運転で年間最大30gのトリチウム生産可能と見込む
トリチウム30g=10,800TBq=10.8PBq
※※同月号に載っている福島トリチウム関連の記事、「風評被害とトリチウム」p.508、「安全なのに、価格が戻らないー風評被害はなぜ起こるのか、どうすればよいのか」pp.518-528、「トリチウムの環境動態及び測定技術」pp.537-541
「固体増殖材開発の最前線」、日本原子力学会誌2018年10月号、pp.629-633
※Li増殖材を照射後に生成されるトリチウム放出実験をまとめており、実験結果としてトリチウムのBq表記の図あり。
「液体増殖材開発の最前線」、日本原子力学会誌2018年11月号、pp.700-704
※Li液体金属(塩)増殖材に焦点を当てており、トリチウム質量、放射能に関する言及無し。
「トリチウム透過研究と透過低減技術開発」、日本原子力学会誌2018年12月号、pp.759-763
※トリチウム透過現象に焦点を当てており、トリチウム質量、放射能に関する言及無し。
「トリチウム蓄積」、日本原子力学会誌2019年1月号、pp.64-69
※プラズマ対向壁(タングステン)中の水素同位体挙動に焦点を当てており、トリチウム質量、放射能に関する言及無し。
「トリチウムプロセッシング」、日本原子力学会誌2019年2月号、pp.138-142Bq1回
トリチウム水処理系のシステム開発は大量にトリチウム水が発生する核融合炉独自の開発課題であった。また、トリチウムの濃縮工程では必然的に濃縮水以外はトリチウムを環境放出基準値以下にまで低減させて排出する必要があり、この低減プロセスがトリチウム処理水系を大型化させる主要因となっている。ITERのトリチウム水処理系では必要となる水処理量が60kg/hであり、トリチウム濃度は平均で0.37TBq/kgが見込まれている。”
※ITERトリチウム処理水系での一時間あたりのトリチウム量60*0.37=22.2TBq
※※同月号に載っている福島トリチウム関連の記事、コラム「トリチウム水に関するニュースへの欧州の関心」p.94
今後の連載予定
「トリチウム閉じ込め」、日本原子力学会誌2019年3月号
「トリチウム計測」、日本原子力学会誌2019年4月号
「トリチウム施設管理」、日本原子力学会誌2019年5月号
「トリチウム研究・将来展望」、日本原子力学会誌2019年6月号

 もちろん、放射能表記で指数が増えたりするのよりは、便宜的に重量表記すること自体に異論はない。ただ、福島のトリチウム問題もあるので、せめて重量とBq換算係数は併記すべきだと思う。しかしながら、既に2/3の連載を終えたが、一度もトリチウムの重量とBq換算係数の表記は無く、福島へのトリチウムへの言及も無い。3月号でも言及されないとするならば、やはり核融合のトリチウム研究者は福島のトリチウム水タンクには全く興味が無いことの証左になるであろう。
 結局、核融合のトリチウム研究者でさえ、トリチウム水は法令基準値以下に薄めて捨てるしかない事を明記している。それならば彼らはなぜ同様の主張を福島のトリチウム水について行わないのか? 火中の栗を拾いたくないからか? しかし、ここで動かなければ核融合の将来に禍根を残すのではないか? 既に岐阜県土岐の核融合研がトリチウム排水を千葉に運んで処理すると言う実績を作ってしまったのだ。自分達の世代の研究費は安定であるかもしれない。ただ、少しでも核融合発電の可能性にかけて仕事をしているのならば、ここで発言せねばなるなまい。まだ見ぬ後輩研究者たちのためにも。

*1 三重水素だとっ? トリチウムとなぜ言わないっ!









# by ferreira_c | 2019-02-12 21:35 | 原子力 | Trackback | Comments(0)

共産党征伐に乗り出す~反戦反共四十年 渡辺銕蔵~

 近頃の自分の渡辺銕蔵関連の書き込みを振り返ってみて思うのは、東宝争議と赤い原研騒動の共通項である。どちらも一般の従業員には、ただただ待遇改善を求めて争議、ストライキに参加した者も多かったろう。あの世界の黒澤明も、自伝の「蝦蟇の油」(岩波現代文庫)で、行き過ぎた東宝の組合の行動も是正されてきていたのに、何故あそこ迄首切り攻勢をする必要があったのか、また渡辺銕蔵と渡辺が連れてきた重役の極端な反共姿勢と卑劣さを糾弾しているようだ*1。希代の映画人である黒澤にとっては、素晴らしい映画を産み出す土壌である撮影所が解体されることが我慢ならなかったのだ。しかし、他に手はあったのか? 話し合いを重ねれば良かったのか? 話し合いは双方に協議する意向があれば成立する。しかしながら所詮「理解は能力ではなく願望©山本夏彦」でしかないので、多分成立しなかったのではないか。残念ながら、出発は待遇改善を求めた経営側への抗議だったとしても、共産党等の政治勢力が加担して時点で運動は変質する可能性が高い。そのうちに組合としての「原水爆禁止」や「日米安保に物申す」という姿勢になったであろう。

 またしても長尺ではあるが、渡辺銕蔵の著書より抜粋引用していく。特に労組側との初対決ドキュメントを抜粋した。

 渡辺銕蔵は昭和222月から企業整備と共産党征伐準備に着手したという*2。争議の際には東京都労働委員会と関わるので、その事務局に共産党員が9名居たことを掴んだ渡辺は、当時の安井都知事に「裁判所に類する機関にこの種のものが存在することは不公平」と解雇を求めに行った。しかしながら、都知事から「9名でなく15名、解雇は困難」という回答を得たので、今度は中央労働委員会に赴いて共産党の危険性を説いた。その席上、共産党征伐をやる決意を渡辺が披歴したところ、中央労働委員会に在籍した教え子が殆んど涙を流さんばかりの真剣さで

「そんな事をされては大変だ。先生に危害が加へられるばかりで無く、家族までも危険だから絶対に止めてください」

と説いたので渡辺は、

「私は東宝の共産党だけを目標としてをるのではない。それを済してから代々木の共産党本部を戦車の如き勢ひで追払ふのだ」

と返すと教え子はオロオロするのみだったという。件の教え子は戦後2年弱の共産党の狼藉が身に染みていたのだろう。

 まず、重役を撮影所長に充てたが、連日つるし上げに遭って一週間で退却してきた。そこで、戦時中決死の態度で終戦工作に奔走した北岡寿逸に撮影所長を依頼した*3。その時に記した文に渡辺の並々ならぬ決意が感じられる。

「此時の此仕事は嘗て命をかけたことのある人でなければできない事であった」

<以下引用>

 四月初めに我々の東宝整理案が概略出来上がった。それを嗅ぎ出して撮影所の労組が北岡所長に迫つて、一人も解雇せずと言ふ言質を取らうとする。北岡君が回答を拒否する。それが数日続き撮影所が不安になったので、四月八日私は遂に自ら撮影所に出向いた。

 物々しい情景である。会談室は身動きの取れぬほどに労組代表者と青年共産党で埋まってをる。私の腰を下した椅子の両側背後に惣に幾重にも青年共産党員がスクラムを組んで取り巻く。すべての窓を開放して鈴なりに外から内を凝視してをる。広庭と食堂内には二千余名と言はれた所内及び各産別の共産党員がひしめいてをる。この威圧の下に、闘争委員長土屋某が私に対して、先づ一名も解雇せざることを誓言せよと言ふ。私は一応経営事情を話した上で返答すると答へて、彼等の設備したマイクが所内に動員された全員に聞へることを逆用して、三十分間に亘つて諄々として会社が崩壊の危機にあることを説き、最後にそれを救済するためには、巳を得ずこの撮影所において二百七十名を整理する必要があることを丁寧に述べた。そして土屋委員長に対し之が私の回答であると言つた。

 私は直ちに満場かなへ沸くが如くになると想像してをつたが、案に相違して労組代表委員等は急に笑顔となつて交々に「社長短気を起してはいけませぬ。よく相談をして打開策を考へましょう」と言ふ。一時間ほど押問答をしてをる内に突然俳優浅田健三が立ち上つて「社長の人員整理方針はどうも本気らしいように見えるがそうですか」と聞く。私は『いゝかげんでこんな重大なことが言へるものじゃない。三か月余に亘る熟慮検討の結果である。』と答へた。すると彼は忽にして目をけはしくして『もし社長が本気で人員整理を行はんとするならば、この撮影所は大混乱に陥るのみならず、全国の産別が立って社長を攻撃する。流血事件が起るのは勿論、殺害事件も起ると思ふが社長はそれでもやる気か』と私を見下す。この室内には会社側は缶詰にされた私と北岡、馬淵の三人限りである。彼等はマイクを通じて交渉経過に聞入ってをる。大食堂と広庭に陣取る内外二千の共産党員を背後にして威嚇しようとするのである。私は怪しからんことを言ふ奴と思ったから彼をにらみ付けて『殺害事件が起れば第一に私が殺られるのだ。それでは怖いから止めますと言へるか。私はこの整理方針を断行する』と言ひ放った。

 ところが彼等は互に顔を見合せながら、又もや急に微笑をうかべて『社長は頑固だな。我々ももっと勉強して能率を上げるようにするから、ゆっくり協議会を聞いて整理案を見合はせて呉れ』と交々立ち代って妥協論を始める。とうとう午後一時から始めたのが九時過ぎになった。私は下痢模様で昼食を取っていない。疲労と空腹でたまらぬ。彼等の言ふことはこの数か月来の沿革と経験で全く真実が認められぬ。私は急に立ち上がって『この有様で君達と何時間話しても無意味だ。私は帰る』と室を出ようとしたが、青年共産党のスクラムに妨げられて動けぬ。私は二、三回それをゆすって頭突をかませたら手がほどけたので室外に出た。辛じて自動車に乗ると、忽ちに数百の共産党員が自動車を取り巻いて、赤旗を振り、インターを高唱して動き出すことができぬ。そこへ土屋闘争委員長が出て来て諸君『今夜は危害を加へるな。今夜は帰してやれ』と制止したので、ようやく私は場外に脱出することができた。気が付くと私の傍らに居た北岡君と馬淵君が見えぬ。私と一緒に出損なったものと思ったので、運転手を迎えにやり、三十分ほどかゝってやっと出て来たので、やれやれと同車して重役一同の待ってをる築地の会社側の本拠に帰り着いた。誰かゞ気をきかして土瓶に入れた酒を呉れた。コップに一杯一息に飲み干すと、長時間の苦闘の疲れも腹の工合も一挙に恢復したように元気が出て、酒は百薬の長という例への真値をしみじみと感じた。

<引用終わり>

*1 黒澤明にとっての東宝争議


*2 反戦反共四十年、渡辺銕蔵、p.322より

*3 https://kotobank.jp/word/北岡%20寿逸-1643326


# by ferreira_c | 2019-02-05 07:30 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

原子力ルネッサンスの創作者たち~森一久オーラルヒストリーより~

 本ブログで国管アレルギーのことを書いたときは迂闊にも気づかなかったが、森一久も原子力ルネッサンスの創作者たちの一人だったようだ。文中に出てくる柳瀬原子力政策課長は先のモリカケ疑獄の渦中にあった高級官僚。その後、退官してから東芝系の会社に天下りしてるらしいからさもありなんと言うところか。
 以下、森一久 オーラルヒストリーの第一回(2007/3/26 14:00-16:00)の後半部から抜粋引用。
<以下引用>
伊藤 原子力発電の技術を輸入するか、自分たちで構築するかということは、中央公論にいる段階から議論になっていたわけですね。
森 外国の技術を使うのはいいけれど、一辺倒では困る。どこかから技術導入してライセンス料を払って使うというようなことだけでは、原子力をやっていけない。そういうことでやっていたわけですね。それはだいたいみんなわかっていた。それでも初めはいろんな故障が起きて、十五、六年経って、昭和四十年代に原子力発電所であちこち穴が開いたりしてからやっと気がついた。それまで電力会社は、結局火力のボイラーを原子力に変えたようなものだというようなつもりだったんです。ただ、世間がうるさいから三原則だとか安全審査だとか、形ばかりのことをやっているんだという気持ちだったんですね。本当に最近ですよ、ある程度本気になったのは。まだそうでもないでしょうね。
 だからメーカーがこういうふうに改良したいといっても、電力会社は受け付けないんです。そんな、お前のところなんか信用しない、アメリカのGEの「お墨付き」を書いて持ってこいとか、ウェステイングハウスの意見なら俺たちは信用するということですから、初めの三、四十年はメーカーが育たなかったわけです。同じくアメリカの技術を導入したフランスがあれだけやっているのに、日本は全然駄目で、ごく最近ですよ、やっと部品を輸出できるようになった。要するに自分で原子炉の設計がとことんできないんですからね。
伊藤 これだけ歴史が長いのに。
森 そうなんですよ。それは電力会社だけが悪いとは言いませんが、広い意味では親方日の丸です。つまり、かかった金は必ず政府が料金で認めてくれる、全部回収できるんですからね。そういうところにぶら下がっているから甘えているわけですね。
伊藤 厳しい試練に遭わないのは駄目ですね。車の排気ガス規制みたいなことをパンとやられたら、車の会社は悲鳴を上げたじゃないですか。だけどそのおかげで日本の車は成長したわけですね。
森 親方日の丸で、みんな仲良しクラブをつくってやるから、ろくなものが作れない。だから結局成功しない。成功しそうになったら電力会社がやめさせる。成功したら、「政府が金を出すことはないでしょう」と言って、やめさせた技術がいくつかあるんです。
伊藤 そうですか。
森 通産省が原子力立国計画を出している。原子力の関係で一つだけ政策課長というポジションには事務系で優秀な人が来るんですね〔資源エネルギー庁電力・ガス事業部原子力政策課長〕。その政策課長にいるのが柳瀬〔唯夫〕というんですが、それが原子力立国計画をつくって出していたものですから、「日本は輪出もしなければいかん、こんなことでいいのか」と言って、このあいだもちょっと昼飯を食ったんです。「柳瀬さん、いま日本はある意味で経済的には自動車立国でしょう。自動車の会社の経営者とか従業員が血と汗を流して努力した。原子力の世界で、それだけ真剣な電力会社やメーカーの人がいると思いますか。みんな政府がお決めになるなら、皆さん一緒に仲良くやりましょう、ということでしょう」と言った。それで彼も気がついてくれて、「この際、横並び方式に護送船団方式はやめる」ということを初めて書いてくれたんです。それで、それらしきものができたんだけれど、さてどうなるか。
 「しっかりやってくださいよ」と言ったら、「私もずっと原子力でやっていく人間ではないですからね」と言う。原子力の技術のほうは、同じ人がずっと上まで行くんですが、事務系はときどき優秀なのが来て、たがを締めてはよそへ行くわけですね。「だけど、悪いことではないから、大いにやりなさい」と言ったんですね。
 初めて一社に委せて、一社に本気でやらせるということになってきた。宇宙開発もそれが成功してから、やっとちゃんと上がるようになったんですね。それが三菱重工だったんですけれどね。今度も皮肉なことに、三菱重工しかないんです。少なくともハードについては、外国も一目置くだけの力があるんです。それで再処理工場なども一番大事な部分は三菱重工がつくった。フランスが舌を巻いているというんですね。「どうして日本はそんなにちゃんとしたものができるんだろう」という。それで三菱重工に聞いてみたら、「いや、それはフランスの詳細設計の通りつくっただけですよ」と言っているというんですね。それくらい違うんですね。ほかの会社は、なんやかや言い訳ばかりです。穴が開いたとか、溶接が反対だったとかいうことばかりやっているんですけれどね。
<引用終わり>


# by ferreira_c | 2019-01-27 11:27 | 原子力 | Trackback | Comments(0)

東宝争議前夜~反戦反共四十年 渡辺銕蔵~

 先日から抜粋引用している渡辺銕蔵の「自滅の戦い」は本書の戦前編に当たる。後半の戦後編は他の形式で再版されていない。思うに、戦後共産党の実態を描いているからではないかと邪推してしまうほど、詳細に記録されている。本書の非常に分かりやすい摘録は軍学者兵頭二十八の㏋にまとめられているので、渡辺銕蔵を知らなかった方は是非そちらから読んでいただきたい*1。なお、読書余論については武道通信のサイトで購入できる*2。予告編で興味を持たれた方は是非購入されたい。
 渡辺は昭和二十(1945)年の暮れに起こった戦後初の労働争議である読売新聞の争議の中立の調停委員に選ばれた。その時、労働者側からも三名の委員が選ばれたのだが、会議初日で委員が変更され、徳田球一、聴濤克己、鈴木東民という共産党首領、猛者が選任された。これについて渡辺は「GHQの指令がなければこんな極端なことが即時に実行される筈はない」と述べている。同じGHQの方針と言えば、終戦後出獄した徳田球一と日本に帰国した野坂参三に対する日本の大新聞の日清日露の凱旋将軍よりもはるかに大袈裟な記事による最上級の歓迎の辞を呈した姿勢に対して、渡辺は「GHQが日本を誤らしめた一部の軍国主義者に代えて共産党を支持する方針」に沿ったものではないかという見立てをした。さて、読売新聞の争議に戻るが、徹宵協議となったが共産党が廊下室外に充満し、怒号し、不断の威迫を行い、結局、渡辺たちは一言を発する機会も無く結論が出されたそうだ。以下は真夜中の休憩時の風景。なお、原文は歴史的仮名遣いで旧字体漢字を使用しているが、さすがに旧字体ばかりだと読みにくいので、漢字のみを新字体に改めている。
<以下引用>
三 共産党の擡頭と労働運動の悪化(p.309)
 真夜中の休息時に委員が集まった時、河原田君と私はキセルを出して怪げな煙草を吸ってをったが、徳田君は和服の袖からラッキーストライクを出して悠然としてくゆらす。空袋を捨てて代りのラッキーストライクをまた袖から出してスパスパとやる。いかにも特権階級らしい満足の姿である。
<引用終わり>
この特権階級の根拠とも言うべき実態は後ほど渡辺によって明らかにされた。
 昭和21(1946)年11月に同窓生の東宝映画社長から「労働組合と団体協約の改定をやるので知恵を貸してほしい」と依頼され、初めは顧問に就任するという話だったのが、数日後に重役で来てもらいたいということになった(後に社長就任)。当時の世田谷砧の撮影所の従業員1,100人中650人が共産党であり、300人が正式党員、その他が秘密党員、青年共産党員であったという。プロデューサー、監督の中にも有力党員がおり、カメラ部、照明部は大部分が共産党員、俳優の中にも有力党員が多数あったという。産党員にならぬと役が付かないので加入した若手俳優もいたらしい。共産党員の従業員の仕事ぶりは以下のとおり。
<以下引用>
四 東宝争議ー共産党との決戦(p.319)
 彼らは横暴と濫費の限りを尽してをった。能率の上らぬ上に、オール共産党スタッフで作られる映画は、他社の二倍乃至三倍の費用をかけてをる。共産党俳優に数倍の給料を与へたり、若い者達に居残りをさせて銀めし、ビフテキを喰はせてフラク会議をやり、労働基準法による割増賃金を与へたり、無用の多人数をロケに出張させたり、彼らは会社の負担においてあらゆる党勢拡張の手段を尽してをった。
<引用終わり>
 実際にどんな手口を使っていたか、以下に抜粋するが閉口するのみである。また、渡辺によって共産党の手口が明らかにされている。
<以下引用>
 昭和二十三年の春になって大村英之介(東宝赤化の元祖)プロダクションで伊藤武郎プロヂューサー*3、土方与志*4其他オール共産党スタッフで「大森林の女」という映画を作るため、北海道の北見へ行くから会社に金を出せと迫る。私は検討の結果彼等が北見の各種の組合に金をばらまいて、将来共産軍の上陸地点の橋頭堡を作りに行く積りであると観察したので、この計画を禁止した。東宝の営業部は是等の共産党幹部の強談判には恐れをなして、従来盲従してをったものらしく、労務課長も私の拒否によって一大事の起こることを予想してをったようであるが、この時は無事であった。
 然るに間も無く田辺会長が私の室へ来て、撮影所の組合が、国鉄の組合と約束して映画を製作してをるらしいと云ふので、私は驚いて調べると、彼等は会社に相談無く、労働組合同志で契約して「炎の男」という映画の製作を企て、将にロケに出る所まで進んでをったのである。即ち彼等は生産管理の実行に着手してをったのである。私は直ちに之を禁止して調べると、伊豆長岡の温泉宿を根拠とし、国鉄労組と会合し既に百万円以上の費用を消費してをる。私は時の鉄道次官佐藤栄作氏を訪ねて国鉄側が手を引くことを依頼し、事件の拾収に当ったが、撮影所は監督団の懇請運動等相当執拗に抵抗した。国鉄側も五十名位の従業員が決議文を持って社長室に押寄せ、全国青年団と称する青年共産党員数十名が社長室に押寄せた。私は単身之に面接して之をさとして帰した。次いで全国炭鉱従業員代表と称し十名ほど社長室に現はれた。その読上げる決議文があまりにも馬鹿化てをり、且つ無礼なので私は之を取上げ追返した。翌日電産代表と称する五人の大男が訪ねて来た。私は片っぱしから面接する方針を決ていたから、社長室に入れると彼等は居丈高になって、労働組合間の相談で作る映画製作を阻止することを非難して、社長は電産の方の映画もやめる積りかと詰めよった。彼等の言ふ所によると、電産労組も亦東宝撮影所の労組と協議して信州で「深山の雪」といふ映画の製作に着手してをるといふのである。私は全くあきれた。会社の知らぬ映画を、労組同志で会社の費用で勝手に製作するような無茶なことは断じて許さぬ。直ちに中止を命じるといって彼等を追返した。
 その次の日、四谷の小学校の教師が小学生十数名を伴ひ、私の留守中に田辺会長を訪ね「炎の男」のような労働者映画を作らして下さいと陳情に来た。小学生までも利用する共産党戦術の卑劣さをまのあたりに見て、田辺君と私は暗澹たる気持ちになった。
 私の近所にも共産党員が居るが、広瀬某等五名が或日私の宅を訪ねて「炎の男」の如き労働映画を作らせぬとは怪しからぬと、決議文を読んだが、その中に「日本を米国の植民地化せんとする売国奴」といふ文句があったので、私は激怒して思はず拳を挙げると、二人の青年は驚いて徒足のまゝ靴を持って逃げ去った。
 東宝の日映演組合も亦執拗に会社を圧迫し、組合の決議文をもって「炎の男」の即時製作開始及び、社長の辞職を迫って来た。会社側は会議の席上で即時に之を拒否した。
 私は是等の情勢を見て呆れ果てた。共産党の浸潤、横暴がこゝまで来てをるとは全く想像の外であった。映画界一般の四重苦に加へて東宝の第五の苦悩である共産党禍は殆んど致命的である。共産党従業員の濫費と経営妨害は、東宝の赤字を益々拡大し、間も無く之を崩壊せしめるに相違いない。彼等はそこに生産管理の目標を置いてをる。殊更に産別に属する重要労働組合が悉く共産党の支配下にあって連携作戦をすることは、やがて日本の産業界を東宝の如き運命に陥らせることである。私は共産党征伐に重点を置いて、東宝の企業整備を断行せねばならぬと堅い決心をした。それはたゞに東宝の崩壊を救ふためばかりでは無い。日本の産業界を救ひ、日本を救ふ緊急重大な仕事であると信じた。
 東宝がかくまで赤化した原因は、昭和六年東宝の前身PCL時代に大村英之介といふ共産党員がその種を蒔いたのであるそうだが、終戦後占領軍司令部の映画主任のコンデイ*5といふのが東宝の共産党を養成し、自ら撮影所に乗り込んで共産党員のストライキを煽動指導したことが最大の原因であるとのことである。徳田球一が世田谷区を選挙区に選んだことは砧の撮影所がこの区に所在することが唯一の理由である。彼の資金も運動員も大部分この撮影所から出たものと思ふ。当時東宝砧撮影所は実質上の共産党本部であったのである。砧撮影所のこの姿に憤慨して、監督渡辺邦男、大河内伝次郎、灰田勝彦等が先頭に立ち東宝から分裂して反共の同志を集めて、独立の映画製作所を作ったのが即ち新東宝である。
<引用終わり>
 上記の徳田の特権階級入りは砧撮影所の予算によるものだったようだ。もし、渡辺が唯々諾々と共産党に屈していたら、もう少し日本の復興は遅れていたかもしれない。あるいは復興そのものよりも、独立が遅れていた可能性もあるのではないか? 渡辺は東宝争議の主役、保守反動等のイメージが強いが、先に引用した渡辺の記述からも、渡辺の主張の方が正解にだったと感じる。

*1 「読書余論」2010年7月25日配信号の内容予告
http://sorceress.raindrop.jp/blog/2010/07/#a001255

*2 武道通信 読書余論 No.49 2010-7月期

http://budotusin.net/yoron.html


*3 伊藤武郎

https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤武郎


*4 土方与志

https://ja.wikipedia.org/wiki/土方与志


*5 D.W.W.コンデ

https://ja.wikipedia.org/wiki/D・W・W・コンデ



# by ferreira_c | 2019-01-23 01:52 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

三重水素だとっ❓️ トリチウムとなぜ言わないっ❗️

 また、核融合に関する欺瞞に満ちた記事が有ったので、備忘のために抜粋引用する。一読後、思わず約20年前の記事ではないか疑ってしまった。
 いろいろ突っ込みどころのある記事だが、まず気になったのは以下の記述。今後訂正が入るかもしれないので、記事配信時のスクリーンショットも貼っておく。
b0209062_22490631.jpg
<以下引用>
 核融合とは、水素のような軽い原子核どうしが融合し、ヘリウムのようなより重い原子核に変身する現象だ。このとき、アインシュタインの質量とエネルギーに関する公式により、膨大なエネルギーが生じる。
 例えば水素の仲間である「重水素」と「三重水素」を計1グラム用意して核融合させただけでも、石油約8トン分ものエネルギーが発生する。核融合発電は、このエネルギーで加熱した水で、タービンを回して電気を作るイメージだ。重水素と三重水素は海水を通じて手に入り、枯渇の心配がない。
<引用終わり>
 なぜトリチウムと書かずに三重水素と書くのだ? トリチウムと書いては都合が悪いのか? 取材したときの量子科学技術研究開発機(量研機構)から入手した資料が三重水素だったのだろうか? まあ、さすがに量研機構のJT-60のページのよくある質問ページにはトリチウムという単語はあった1)。しかしながら、もう一つの国内の有力核融合研究機関である核融合科学研究所の小学生に説明するページではトリチウムのトの字もなかった2)。
 また、決定的な間違いもある。何とトリチウムは海水を通じて入手するようだ…orz。最初に炉内に装荷するトリチウムは、加速器か原子炉でしかまとまった量を生産できない。少しググれば分かるはずなのに、産経新聞の記者ともあろう者が何をやっているのか? 未だに頭の中が「原発は汚い、核融合はクリーン」で止まっているのであろうか? それとも、未来のエネルギーを支える核融合を、福島第一のトリチウムとイメージが重ならないようにしたいのか?
 このあとも、核融合技術の意義やJT-60プロジェクトや国際プロジェクトITERの説明に文章を割くけれども、「原子力」という単語は以下の記述に有るのみだ。
<以下引用>
 湯川博士は1957年、政府の原子力委員会が設置した核融合反応懇談会の初代会長に就任するなど、研究の進展に尽力。
<引用終わり>

 加えて、恐ろしいことにこの記事の中には三重水素が放射性物質であることは説明されていない。上の記述にあるように、簡単に「核融合炉燃計1グラムから石油約8トン分ものエネルギーが発生」と有るのだが、実際にこの分だけでも放射能を算出すると以下のとおりとなる。
 まず、核融合炉の基本反応は以下のとおりである。Dは重水素、Tはトリチウム、4Heはヘリウム4、nは中性子を指す。
D + T -> 4He + n(14MeV)
 重水素1モルトリチウム1モルを利用する場合、重量は2+3=5gとなる。この記事の仮定では、燃料1gで石油8トン分のエネルギーと有るので、その場合必要なトリチウムの重量は3/5=0.6gとなる。では、0.6gのトリチウムはどのくらいの放射能になるのかと言えば、トリチウムの重量放射能換算が360 TBq/gとなるので3)、トリチウムの放射能は360*0.6=216TBq=0.216PBqとなる。ちなみに、福島第一原子力発電所の事故で環境中に放出されたヨウ素131は160PBq、セシウム134は18PBq、セシウム137は15PBqという推定であった4)。もちろん、放出される放射線、半減期及び体内半減期等の違いが有るので、一概に比較はできないけれども、簡単に重水とトリチウム1グラムとは言えないはずである。きちんと放射能を記し、リスクにも言及すべきであろう。同様に、核融合反応で発生する14MeVの中性子による材料放射化の話が一行も無いとはどう言うことだ? もし記事のスペースが無いと言うのであれば、もう少し絞って書くべきだろう。今どき、長所ばかり書いて、リスク等への言及が一切無い記事にお目にかかるとは夢にも思わなかった。
 核融合一家はこのような記事の流通を放ったらかしにするつもりであろうか? 福島第一のトリチウムでは特に大きな声で発言しないことで事なきを得ようとしたが5-7)、せめて自分達の技術のリスクはきちんと説明すべきであろう。確かに自分達のホームページでは説明しているけれども、このような、まるで20年前の提灯記事を放置するようであれば先行きは暗いとしか言いようがない。

引用文献
1)かくゆう合へのとびら(自然科学研究機構 核融合科学研究所)
http://www.nifs.ac.jp/ene/qa/qa_04.html2)よくある質問(JT-60ホームページ)
http://www-jt60.naka.qst.go.jp/questions/faq.html
3)放射線について考えよう 第3章放射能と半減期について考えよう(多田将)
http://radiation.shotada.com/chapter/03/

4)チェルノブイリと福島第一の放射性核種の推定放出量の比較
https://www.env.go.jp/chemi/rhm/h29kisoshiryo/h29kiso-02-02-05.html
5)日本の核融合研究投了、関連予算は全て他に回すべきである
https://ferreira.exblog.jp/28018004/

6)やはり漁協は強かった~今こそ核融合研究のトリチウム屋は声を挙げるべきである~
https://ferreira.exblog.jp/26990154/
7)核融合の専門家はトリチウム汚染水について発言したのか?
https://ferreira.exblog.jp/21048106/

# by ferreira_c | 2019-01-20 14:11 | 原子力 | Trackback | Comments(0)

何が帝国大学教授だい、何が陸軍大将だい、金儲けばっかりじゃないか

 共産党の軍事組織の責任者だったらしい大窪敏三の聞き書きから備忘のために抜粋しておく。著者の履歴は下記のとおり。
<以下巻末より引用>
1915年東京生まれ。裕福な幼少時代を過ごしたのち、関東大震災で一家没落。事実上小学校中退という極貧生活の中で、家族を養うために帝拳のプロボクサーに。1936年召集され、海軍陸戦隊員として、約10年間大陸を転戦。「本土決戦」下では、横須賀鎮守府の「闇の王様」と呼ばれる。戦後、日本共産党に入党、米軍占領下で労働運動に参加、軍事方針下の共産党東京都委員会軍事委員長として非合法活動を行い、軍事スパイ容疑で逮捕・投獄。出所後、「医療に貧富の差があってはならない」との信念から日本初の医療生協を創設。一生を通じ「義を見てせざるは勇なきなり」を実践した硬骨漢。
<引用終わり>
 「まっ直ぐ(まっつぐ)」(南風社、1999年)は著者の長男の聞き書きで構成されており、いわばオーラルヒストリーとなっている。大窪は昭和26(1951)年12月2日に逮捕されたらしい。それまでに手掛けた仕事や、当時は赤化していた前進座に匿われた話とか、幻の民山窩に協力を得た話とか、朝鮮戦争前後の半島からの密航方法等の大変興味深い話で満ちており、以下のリンクで著者の長男の許可を得て抜粋されている。

 本日引用するのはそれ以外の話。明治以降の日本におけるある風景の切り取りである。
<以下引用、p.35>
 俺のおふくろは、名前は「あさ」っていってね、江戸川のほう、いまの江戸川区の一之江ってとこの名主の娘だった。
 穂積陳重ってえ学者がいただろ。法学者、帝国大学教授で、枢密院議員だよ。おふくろは、娘時代に、この穂積の家に行儀見習いに上がった。
 穂積の奥さんは、渋沢栄一の娘なんだよ。渋沢栄一っていやあ、当時の財界の大御所だよ。そいから、陳重の息子が穂積重遠、こいつも帝大教授やなんかをやった法学者だよ。そいで、この重遠の奥さんが児玉源太郎の娘なんだよ。児玉源太郎ってえのは、日露戦争の総参謀長、陸軍大将だよ。偉いやつらが、そういうふうに、ひとつかたまりんなって、閏閥をつくってたんだな。
 そうするってえと、渋沢栄一がよく穂積の家に来たっていうんだよ。そんときにゃ児玉源太郎なんかも来る。やっぱり閏族の政府の役人やなんかも来る。そうやって、一族が集まると、情報交換がはじまるっていうんだな。
 今度、政府はこういう事業をやる。そうか、それなら、ここに落札させろ。いまのうちに、みんな、そこの株を買っておけ、・・・ていうようなわけだよ。みんなをリードしてたのは、渋沢栄一だっていうね。経済情勢の解説をして、どこの株を売って、どこの株を買えっていうようなことを細かく指導していたそうだね。
 おふくろは、お茶を出したり、酒を出したりしながら、聴くともなしに、そういう話を耳にしていたってわけだよ。だから、家が貧乏になっちゃってから、そんときのことを思い出したんだな。
「あの人たちは、みんな、悪いよ。みんな、ぐるで、金儲けの話ばっかりしてたんだよ。何が帝国大学教授だい。何が陸軍大将だい。金儲けばっかりじゃないか。そこへいくと、おまえのお父さんは、これっぽっちもそういうことはしなかったよ。いまは、すっかり貧乏になっちゃったけど、正直にやってきたんだ。おまえもね、ああいうことだけはやっちゃダメだよ。ずるいことはいけないよ。正直にやるんだよ」
 鶴の御殿の門番小屋で、そういって諭されたよ。
 俺は、その説教が身にしみたけど、飯が食えねえんだから、からっきしダメ、どうしようもねえよな。
<引用終わり>

 吉田茂の大磯道路や、田中角栄の目黒御殿から新潟の実家まで三回曲がるだけで着くなどの伝説にもあるように、ある時期までの日本は権力者が受ける特権に無自覚になっていたと感じる。以上の風景も日本の資本主義の父にして、著書の中で「正に就き邪に遠ざかるの道」と称して誘惑に負けない方法を説明した人のエピソードである。他の裏付けは無いのだが、その語り口からほぼ事実ではないかと感じる。

# by ferreira_c | 2019-01-17 19:31 | 書評のようなもの | Trackback | Comments(0)


blogに名を借りたほぼ月記。軍学者兵頭二十八に私淑するエンジニア。さる業界所属ゆえにフェレイラと名乗る。
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