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いよいよ(いつの日か究極の高効率発電源となる)核融合の出番だ、あるいはトリチウムにまつわるエトセトラ

 さて、衆議院議員総選挙である。自民党総裁選の期間中から高市早苗現政調会長が核融合推しだったことを知った。総裁選期間中のインタビューにおいて、核融合の早期実現性への確信と、このブログでも触れた「京都フュージョニアリング」への投資が集まらない事を残念に感じていることはわかった*1。しかしながら以下の理解で大丈夫だろうか?
<以下引用>
案外技術革新は激しくて、核融合炉の場合は全く有害な核廃棄物が出ないし、海の中にある重水素といった資源だけで発電ができる。「核」とつくだけでみんな怖がるかも知れませんが、核融合炉というのはウランなどが必要ないので、最も安全な発電方法だと思います。
<引用終わり>
 えー、当面核融合反応に用いられるDT(重水素トリチウム)反応14MeV中性子による放射化廃棄物となる各種構造材は無視なのか・・・。もちろん、重水素だけのDD(重水素重水素)反応でも核融合反応は理論上起こせるが、DD反応の二つの反応のうちの一つではトリチウム(1MeV)と陽子(3MeV)が発生し、結果的に一部DT反応も起る。
 気を取り直して自民党の選挙公約を見ることとする*2。ここでも高市早苗議員の核融合推しが反映されたのだろうか?
<引用開始>
究極のクリーンエネルギーである核融合(ウランとプルトニウムが不要で、高レベル放射性廃棄物が出ない高効率発電)開発を国を挙げて推進し、次世代の安定供給電源の柱として実用化を目指します。
<引用終わり>
 私はこのBLOGで「核融合を批判的に捉えている」と感じられるかもしれないが、幼い頃に夢見た理想の核融合発電が生きている内に実現してほしいと切に願っている。まあ商業発電はかなり難しいかもしれないが。どうしても批判的な傾向になるのは、ひとえに核融合に関する説明が雑すぎるからだ。例えば、京都フュージョニアリングは相変わらず日本語説明ページにトリチウムの表記が無く三重水素で終らせている*3(2021/10/23現在)。まあ、HPを見たところ、高市議員効果のおかげか、経済産業省・令和3年度「原子力産業基盤強化事業補助金の間接補助対象事業者に採択(2021/9/15)、経済産業省 資源エネルギ特許庁の「知財アクセラレーションプログラム(IPAS)」に採択(2021/10/19)、近畿経済産業局推進の「J-Startup KANSAI」に選出(2021/10/20)という感じで順調なのはご同慶の至りではあるが*3。
 ただ、現時点で最も早く商業化が想定される核融合反応(DT反応)では到底高効率発電とは言えない。将来的にプラズマ粒子密度,プラズマ温度等をより高くすればD3He(重水素3ヘリウム)反応による核融合が実現できる*4。この反応であれば、発生する粒子はすべて荷電粒子であり、粒子の運動エネルギーを効率良く直接電力に変換する、いわゆる直接発電が原理のうえで可能である*4。しかしながら3Heは地球の大気中では4Heの100万分の1しか存在しない*5。月面には地球上よりはるかに多く存在するので、月面の岩石からヘリウム3の採掘を試みる研究も行われている。また、木星大気では3Heと4Heの比率はおよそ1万分の1であった*5。ようやく月面まで到達した人類が、月面岩石や木星大気からの資源採取が可能となるのはいつの日だろうか? SFの中では実現できているが、現実世界であれば、技術的というよりもコスト的に到底見合わず、ほぼ不可能ではないか?
 それでは、もっとも実現が近いDT反応による核融合発電だと、どのようにエネルギー変換されるのだろうか? それについては京都フュージョニアリング主宰の小西京都大学教授が約16年前の学会誌に投稿している*6。
<引用開始>
これら2つの経路の熱を熱媒体が(ブランケットから)運び出すことで核融合エネルギーが利用可能な形に変換されます。ブランケットは熱を中間熱交換器や蒸気発生器に供給するループが閉じて完成することになります。
~中略~
ここではトカマク型を例にしていますが,ヘリカル型や他のプラズマとじ込め,レーザー等の慣性閉じ込め核融合など,プラズマの部分が違ってもブランケットの基本的な機能は共通です。一方,同じ炉心プラズマに対しても,取り出される温度は,構成材料や熱媒体によって様々です。このため核融合のエネルギー利用系も,軽水炉と類似の蒸気タービン,高温ガス炉で考えられている高効率ガスタービン,高温熱利用など様々な可能性があります。
<引用終わり>
 要は既存の原子力発電とエネルギー取り出し手段はさほど変わらないこととなる。これらの現状を全く告げずに夢を語り続けるのは不誠実ではないだろうか?
 最後に、原子力学会2021年10月号に掲載されたトリチウムに関する記述を引用して終わりとする*7。天然に存在する総トリチウム量と核融合炉で消費されるトリチウム量のデータが掲載されていた。今回のトピックで示したことは、特に苦労することなく検索できる。誰しもが最新知識に手軽にアクセスできる現代社会において、従前の説明で済まそうとするのならば、原子力が自ら生みだした歪んだ安全神話に復讐されたように、現実に復讐される時が来るのではないか? もう残された時間はそれほど無いと思う。今からでも、福島のトリチウムと核融合のトリチウムに関する説明をした上で、現政府が掲げる福島のトリチウム放出方針は科学的に間違っていないことを核融合研究者の総意として発表すべきと思うのだが。そして、核融合炉でのトリチウムインベントリーの大きさに対する備え、安全対策は十分であることを同時に示すべきであろう。
<引用開始>
地球上では、宇宙線と大気中の窒素や酸素の核反応によりトリチウムが生成されている。この天然トリチウムの量は、その生成速度と壊変速度(半減期12.3年、壊変定数1.78×10-9s-1)とのバランスにより、約1018Bqとなっている。
~中略~
世界中の原子力施設から放出されるトリチウム量は1017Bq/年程度と推定されている。
~中略~
福島第一原子力発電所の処理水中のトリチウムの総量は8.6×1014Bq程度である。
~中略~
天然に1018Bqのトリチウムが存在するが、これは約1000mol(3㎏)に過ぎず、また希薄に分散して存在しているので、核融合炉の燃料としての使用には適さない。
~中略~
日欧米露中韓印の国際協力で建設が進められている核融合炉ITERでは、カナダの重水炉から回収されたトリチウム等を利用する。サイト内のトリチウム貯蔵量は3㎏(1×1018Bq)程度とされている。
~中略~
1GWの核融合出力を1か月間得るためには、約5.8㎏(2×1018Bq)のトリチウムが必要となる。
<引用終わり>

*1 「私がもし総理であれば」 高市早苗氏が総裁選で打ち出す「危機管理」の政策とは【インタビュー】、核融合炉は「2020年代に必ず実現」
https://www.j-cast.com/2021/09/03419606.html?p=4
*2 自民党選挙公約(PDF)、02.「新しい資本主義」で分厚い中間層を再構築する。「全世代の安心感」が日本の活力に。
https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/pamphlet/20211011_pamphlet.pdf
*3 京都フュージョニアリングHP
https://kyotofusioneering.com/fusion/
*4 アトミカ核融合反応と熱エネルギー
https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_07-05-01-01.html
*5 ヘリウム3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%A03
*6 小西 哲之、榎枝 幹男:“連載講座 よくわかる核融合炉のしくみ 第6回 エネルギー変換を行い,燃料を生産するブランケット”、日本原子力学会誌、Vol.47、No.7, pp.488-494(2005).
http://www.aesj.or.jp/~fusion/aesjfnt/rensai/rensai06.pdf
*7 波多野雄治:“トリチウムの保健物理の最前線 原子力施設でのトリチウム発生”、日本原子力学会誌、Vol.63、No.10、pp.21-25(2021).


# by ferreira_c | 2021-10-23 00:19 | 原子力 | Comments(0)

オレは右翼なのかい? 左翼なのかい? どっちでもないっ(茅誠司の心の叫び)~島村原子力政策研究会資料摘録2~

 オーラルヒストリーから物事を読み取っていくのは本当に大変だと実感。特に高齢の方々が講師となっていた島村原子力政策研究会だと、話題も行きつ戻りつになっていることが多い。その中でも島村はうまく話を引き出しつつも、脱線したら論点をさりげなく元に戻す等の点で会議を仕切るお手本となっている。
 今回は、中曽根元首相の「札束で(学者の)ほっぺたをひっぱたく」発言が伝説となっている原子力修正予算(2億3千5百万円)提案の頃における茅誠司を巡るゴタゴタを記しておく。単に茅の国内的な政治姿勢評価の揺れだけでなく、当時のアメリカのインテリジェンス部門が日本の有名な学者の発言などに対してセンシティブになっていたことも併せて記す。
 まず茅のその時代の略歴は以下のとおりである。

 1943年12月 東京帝国大学教授着任
 1948年 文部省科学教育局長を務め、日本学術会議設立に尽力
 1949年 日本学術会議第4部会(理学)部長就任
 1951年1月 日本学術会議副会長(自然科学部門長)就任
 1951年9月 サンフランシスコ平和条約(講和条約)締結
 1952年4月 講和条約発効(核分裂研究が可能となる)
 1954年1月 日本学術会議会長就任(~1958年4月)
 1954年 日本アイソトープ協会会長就任
 1957年12月 第17代東京大学総長就任(~1963年)

 話はノーベル賞を受賞した湯川秀樹から始める。まさにそこから日本の原子力研究に関して学術会議が動き出す*1。
(引用開始)
島村:湯川記念館の開館式(1952年7月)で、茅先生が日本としても原子力問題をどう考えるかが先決だということを話しておられる。
伏見:そうです。
島村:その5日後に学術会議で、伏見先生に草案の作成を頼むことにしようじゃないか、そして10月になって茅・伏見提案[講和条約が発効したので、学術会議に原子力問題の取り上げ方を検討する委員会を設け、政府にも原子力委員会設置の検討を要請]がなされたと、こういうことになっているんですが。大体それには間違いはないですか。
伏見:そうです、時間的には。ただ、運営審議会の頃までは、狭い学術会議の会員の議論の中では、非常に皆さん楽観的で、なんとなくうまくいくような気配であったわけです。ところが、8月に若い連中が騒ぎ出したものですから、皆駄目になっちゃった。第4部の殆どの方が皆とにかく前向きであったというのに、イザ総会が近づいたら皆脱落してしまって、残ったのが伏見、茅二人になってしまった。始めから茅・伏見提案というのではなかったんです。始めは第4部提案の筈だったんです。
(引用終わり)
 この周囲の空気の変化を茅自身は以下のように述べている*2。
(引用開始)
茅:それは、1952年に講和条約が結ばれた。この条約でもって核分裂の研究をしてもいいってことになって、原子力の研究が大きな問題になる。
~中略~
それで、私が原子力の提案[講和条約が発効したので、学術会議に原子力問題のとりあげ方を検討する委員会を設け、政府にも原子力委員会設置の検討を要請]をすることとなった。それに対しては、自然科学部門は全部私の提案に賛成であるという噂だった。ところが、段々一減り二減って、とうとう私がもと部長の第四部でも賛成しない。結局やってみると、残ったのは今参議院議員をしている伏見くん一人ということになった。それで、なぜそうなったかってことはよくわかんないんですけど。お前は原子爆弾をつくるそうだねっていう質問をよく受けるんで、そんなばかなこと言ったことないけど、だいたいどこで聞いたんだ。あなたのとこの、東大の物理の若い連中がそういう噂してると。僕のとこで言ってるんじゃ、責めるわけにもいかんねってわけで。それでも、あんまり気にしないでいたんですけど、結局伏見君一人が一緒になってやるということになった。
(引用終わり)
 ここに至って、茅は1952年8月辺りに若い物理学者を中心に右翼認定されていたようだ*3。それだけでなく、学術会議第四部の中でも非民主的な男とまで言われていたらしい*4。
(引用開始)
石川:学術会議の中で、原子力の文献集めをしようという動きで、その当時の若い物理学者どもが反対したのは、理由は何なんですか。
茅:いや、僕の人柄によるんです。(笑い)まあ、僕って男はもうしょうがない男だっていう、そういう考え方があった。
杉本:先生、それは失礼ですけれども、右翼だという風な意味なんですか。
茅:右翼ととられたんだ。だけど右翼をやったことはない。僕は、国会に行くと、湯川さんご一緒だったんですが、なんか左翼と間違えられたこともあるんです。だから右翼とばかし間違えられたんじゃなくて、左翼と間違えられたことも。(笑い)
(引用終わり)
(引用開始)
茅:それは、やってるうちに、これも秘密なことですけど、例えば名古屋の有名な教授、坂田昌一なんか、茅さんは非民主的な男だから嫌になっちゃった、だから一緒にやらなかったと、こういう。(笑い)そうか、俺は非民主的と言われてることあるんだなと思ったけど、それだけです。どうして皆がそういう風に思うようになったかってことは、僕は知らないんです。なにしろ、こういうのは噂が立つと酷いことになって、それで、今賛成なんかやってる人なんかでも、駒形作次さんなんかも賛成なんて顔は絶対しなかったです。言えば、あいつ怪しからん奴だって思われるに違いない。
(引用終わり)
 しかも、茅・伏見個人提案が1952年10月24日の学術会議総会に提出されたときには、有名な広島大学の三村教授の反対演説の後に以下のような発言すらあったらしい*4。
(引用開始)
茅:彼(三村)の提案は、「アメリカとソ連の仲が平和になった時に初めて、わが国では原子力の研究はするべきである、それより前にするべきではない」という結論だったんです。それを聞いて、それより前かも知れない。最初に大阪大学の部長、有名な外科の先生が質問に立ったんです。茅と言う右翼の男と、伏見と言う左翼の男と一緒になっての提案に賛成するのか。(笑い)そしたら、伏見が座席からひょっと立ちあがって、「私は研究をしたいからです」、それで座っちゃった。さすがの学術会議が、学術会議ってのは研究者の集まりだから、研究したいからですって言ったら、一座がシーンとしたです。
(引用終わり)
 結局、茅・伏見提案は多数の反対によって取り下げられたのだが、人文社会法律系副会長我妻栄の「こういうことを研究することこそ学術会議の使命ではないか、どう扱うか委員会を作るべき」という意見によって委員会が設置された。茅はそのときに聞いた噂を述べているので記しておく*5。ただ、1952年末に出された委員会検討結果は芳しくなく、茅は失望することとなる。そうこうしているうちに、1954年3月の国会において有名な中曽根康弘の原子力予算提案となった*6。
(引用開始)
茅:我妻さんが、僕のあれが否決された後、こういう重要な問題は学術会議がいかなる案をとるべきかという、それをやらなきゃ困ると。これは全員一致でダーッと通っちゃった。そしたら、その頃赤かった連中は歯軋りして、ああ遅かったと言ったという噂がある。噂ですよ。
(引用終わり)
(引用開始)
茅:第39委員会、後に原子力問題委員会と呼んだ。~中略~その人(務台理作、第1部副部長、もと東京文理科大学学長)が委員長になって、そうしていろいろと研究した。その年の終わりに結論が出たんです。学術会議の総会で、結論が出た委員会は報告するということになって。どういう結論が出たか、私達も非常に期待していたところが、まだ文献を多量に集めるには早すぎる[大塚益比古資料:原子力研究についての大規模な調査機関を設けることは、学術体制の整っていない現在、これを作るのは適当でない。]という結論だったんです。それで僕はがっかりしちゃったんです。その後、学術会議の改選(1954年1月)で、次の任期の人を選ばなくちゃいけない。改選後の新しい委員会を検討していた。その時に、有名な中曽根康弘の、―54年3月に、改進党のキャスティング・ヴォウトで予算修正案があって、原子力の研究予算ってのを、僕は忘れちゃったけど3億いくらかな。3億5千万位じゃないですかな。
島村:いや、2億5千万(原子炉築造費2億35百万円、ウラン探査15百万円)です。
(引用終わり)
 その後、1954年1月に日本学術会議会長に就任したことがきっかけで、1955年5月にソ連、中華人民共和国を訪問した学術視察団の団長になったことや*7、1955年11月に世界平和アピール七人委員会*8のメンバーになったことで左翼認定されたようだ*7。
(引用開始)
茅:僕はソ連の学士院会員なんです。それは赤いからじゃなくて、日本の学術会議の会員を連れて、呼ばれてソ連へ行って、ソ連を三週間回った。その結果として私は学士院会員になって、いまだになってます。そうすると、あの男はソ連の学士院会員だっていうと、決してよくは取らない。
石川:それはもうアカの証拠十分じゃないですか。(笑い)
(引用終わり)
(引用開始)
茅:こんなこと、あなた達だから言うけど、ある人が、私は本人と非常に親しいんです、その人が、茅さんいい人だけど、共産党となんか関係してるのが惜しいって言ったって事があるんです、そういう噂が。僕はそれを、ちらっと聞いて、ははあそうかなと。つまり、僕が原子力の平和利用のために、七人委員会(1955年11月11日発足「世界平和アピール七人委員会」、88年11月9日死去までメンバー)をつくっているでしょう。あれが、赤いと見られてる。
(引用終わり)
 時代は少し下り、新日米安保条約批准を記念してアイゼンハワー米大統領の訪日が計画された。1960年6月19日にアイゼンハワーと昭和天皇香淳皇后両陛下を乗せたオープンカーが羽田から皇居まで18.7kmをパレードする予定だったが、60年安保の騒擾状態を危惧した政府、自民党は橋本登美三郎がアイク歓迎実行委員長となり、岸首相が旧知の児玉誉士夫を通じて任侠(右翼)団体へパレード警備を依頼したらしい*9。この歓迎実行委員会かどうかははっきりしないが、茅は東大総長という立場から何らかの歓迎委員を担ったようだ。すると学内からの非難が強く、慶應義塾大学の小泉信三からは「皇室を政治の道具に使うな」と言われたらしい。しかしそもそも(パレードが?)皇室の提案だったようだ。
 後日、アイク訪日が中止になってホッとした茅であったが、思わぬ事態に巻き込まれている。今で言えば報道被害の一種だろう。何はともあれ、この一件でアメリカ大使館とは絶縁状態となった*10。大学、マスコミからは右翼、アメリカ大使館からは左翼と認定されたも同じだったろう。
(引用開始)
茅:一等はっきり言えば、1960年にアイゼンハワー大統領が日本に来るって言うときに、一番心配したのは私なんです。つまり、あの時に学生が大変な騒動やってる。あの時に、アイクの列へ向かって、乱暴した連中がなんかしようとしたら、どんなことになるかわからない。それで、非常に心配したんです。しかし、アイクの来る以上は、歓迎委員会をつくろうと、歓迎委員になったんです。そしたら東大で非常に非難された。けれども、東大の学長が歓迎委員にならんっていうのも尚おかしいんで、なった。非難が非常に強かった。そしたらうまいこと、アイゼンハワーが来なくなった。あれはあの、慶応の顔をやけどした人、慶応で非常に評判が良かった人があったでしょう、小泉信三さん。小泉さんが生徒に言って、皇室を政治の道具に使ってはならんと言ったわけです。あれ皇室の「提案」なんです。それで、来られたらいけないっていうんで、止めたんです。それで、僕はそれを聞いてよかったなあと思っている時に、アメリカのいろんな新聞に英文が出たんですが、I am very gladと出たんです。そしたら、アメリカ大使館の僕がよく知ってる男がやってきて、これはお前本当かっていうから、いやvery gladじゃない、I am relieved、救われたって意味でいったって言ったら、なんで直さないんですかって。日本じゃ、直すのはなかなか大変だって言ったら。
石川:(笑い)
茅:以後は、アメリカ大使館と関係するのは全部やめてほしいと。アメリカ大使館の推薦で、米国へ原子力の研修に行った人がいたんだ。ああいうのは、全部私の推薦した――それをぜんぶ辞めろというから、止めろというならいいですよ。それで辞めたら、それから今日まで、それはコンピュータの記録にある。黒板でないと消せないんだ。コンピュータに入ってるから、消えないでいまだに出てる。
(引用終わり)
 悪いことは続くもので、1960年12月2日の琉球大学創立10周年記念式典に出席した際のスピーチも大いにアメリカ大使館を刺激したらしい*10
(引用開始)
茅:そういうのを今一回食っている。それは、沖縄の、琉球大学が10周年記念の式をやる、その時に東大学長として来てくれって行ったんです。そうしたら、式台のそばにフェニックスが二鉢植わってるんです。だからこのフェニックスは、焼けただれた土地から「真の人間」っていうのが生まれることを希望して置かれたものだと言ったら、とんでもない話だ。そんなことがアメリカにとって大変な発言なんです。それ以来アメリカ大使館は、私とは何も関係ない。
(引用終わり)
 結果的に、アメリカのインテリジェンス部門に要注意人物と認定されたようで、いろいろと面倒くさいことが起こってしまう。しかも長く訂正されなかったようだ。
(引用開始)
<文中より1977~1978年と推定>
茅:今から7~8年前ですが、沖縄の関係で南米に行ったことがある。南米の帰りにロサンジェルスで、その次の飛行機を待つために降りたら、お前だけはこの部屋にいて、他に行っちゃいけないって言う。僕だけ閉じ込められたことがある。これはワンスエントリーです。その前にも、ワンスエントリーで、お前は外に出ちゃいけないよってアメリカで2回ほどくってる。そうしたら、ある日本の通訳がそのことを開いて、茅さんをそういうことにあわすのはおかしいじゃないかって言ったら、その時だけちょっと直ったことあったけど。 未だにワンスエントリー
石川:活字というのは怖いです。
(引用終わり)
(引用開始)
<時期不明>
茅:たとえば、女房と子供達連れてナイヤガラフォールに行った。それで、方々見て回った 後で、向こうのカナダ側に向かって、橋を渡ろうとしたら、お前はワンスエントリーだから行っちゃいけないって。あれはびっくりした。他の連中はいい。皆行っちゃった。僕はこっちにいて待ってた。まあちょっと首出してもいいよって言って。(笑い)とうとう二時間ほど座って待ってた。
(引用終わり)
 しかし、アメリカから注意深くモニターされていたのは茅だけではなかった。理研で寺田寅彦の薫陶を受け、その後北海道大学に着任した中谷宇吉郎も共産党との繋がりを誤解されてなかなかアメリカに行けなかったらしい*10。また、日本政府は日本原子力研究所の幹部人事に対しては殊の外慎重であったようだ*11。これは日米両政府とも、赤狩りからオッペンハイマーの公職追放(1954年4月)という時期にあたり、仕方の無い反応であったのかもしれない。
 ただ、当事者となってしまった茅にとって甚だ迷惑な話であったろう。なお、原研幹部の人選には注意したが、一般の研究者までには手が回らず、結果的に赤い原研と呼ばれるようになってしまった。
(引用開始)
茅:中谷宇吉郎北海道大学教授が、外国に行こうという時に、アメリカに呼ばれた時に、なかなか許可がおりなくって。ケリーさんにどうしたらいいかって言ったら、僕がちょうど 文部省科学教育局長だったから、お前が、中谷君は非常によくやってると証明すりゃいいって。それで、何回か書類を往復して許されて行ったんです。非常に評判がよかった。 それからよく聞いてみたら、アメリカの反対の理由は、中谷は共産党から研究費をもらってたんだということになってる。そのことを都留重人にしゃべったんです。「ああわかった」っていうんだ。「あの時僕(都留)が経済企画庁にいて、僕が研究費をやったといわれている。僕がやったことが、共産党がやったと同じに取られた」。中谷君は、北海道の農業生産を増やすため雪を早く溶かそうと、雪の上に早く土を撤いて、それで熱を吸収して雪を溶かすそういう研究を始めたんです。そしたら、経済企画庁が研究費を出した。それが、共産党からもらったってことになっている。
石川:はああ。そういうことに変わってるんですか。
茅:怖いですよ。
島村:いっぺん載っちゃったらもう消せられない。
茅:消せられない。そこがいいところか悪いところかわからないんだけど、一度つけられた ら消せない。
島村:しかも、全く向こうの誤解なのに。
(引用終わり)
(引用開始)
石川:茅先生は、満86歳かな。さっき言った米寿は数え年で88歳です。
杉本:いや、茅先生、あのお年で記憶力がはっきりしている。日本原子力研究所初代理事長の安川第五郎さんなんかは、80を超えると晩年ははっきりしなかった。
藤波:茅先生がアメリカと絶縁状態にあったということは始めて聞いた。
石川:アメリカのCIAの情報は怖いです。
藤波:怖いのと、アメリカもかたくなな――。時代がずいぶん経ってもレヴイユーしないのかな、再検討委員会などで。
石川:下手に新聞記者が間違ったことを書くと、パーっと広がって、訂正ということはないから。茅さんは、その辺は、マスコミの批判を込めているのかな。
杉本:しかし原子力が始まったあの頃は、世の中が不安定だったから、一寸なんかやると赤だといわれたもんです。
藤波:理研の山崎文男さんを原研の理事にするとき(1969年2月)に、僕は苦労した。総理府で問題になって待たされたことがある。調べたら、交際する仲間の中にこっちがいると。
杉本:私が始めてアメリカに行く時に、原研理事長の菊地先生が、君、良くアメリカのヴィザが出たねと言われて。いや、僕なんかに出るのは当たり前ですよと言って。
藤波:山崎さんは、その後でいいことになって発令できた。最近の何処何処の講演会やゼミナールの質疑応答で受けて立って、シッカリしたことを言って、反対派に対して毅然としてやったということで。良く調べている。
杉本:1956年に原研ができた時、下馬評では山崎先生が理事になると言われていたのが、実際は杉本朝雄理事になったのも、そういうことがあったんですか。
藤波:その頃はタッチしていないので、知らない。雑誌記事だとか投稿したのをよく調べている。誰がこういったとか、マスメディアの影響は大きい。石川さん、あなた方の一筆一行は大事ですよ。誰がこういったと言うのは。
杉本:茅先生みたいな方が、アメリカとそうなっていると言うのは、今日始めて聞いたね。
(引用終わり)

*1 島村原子力政策研究会資料、文部科学省研究開発局原子力計画室、2008年6月、p.14
“学術会議と三原則”、開催日:1985年7月11日、講師:伏見康治(大阪大学教授、名誉教授、名古屋大学教授、名誉教授、日本学術会議会長、参議院議員)、出席者:島村武久、藤波恒雄、田中好雄、別府正夫
*2 *1のp.25
 “学術会議と原子力事始め”、開催日:1985年11月29日、講師:茅誠司(北海道大学教授、東京大学教授、日本学術会議会長、東京大学学長)、出席者:島村武久、藤波恒雄、田中好雄、別府正夫、杉本栄三、堀佳辰、石川欽也、林弘
*3 *2のp.36
*4 *2のp.30
*5 *2のp.33
*6 *2のp.27
*7 *2のp.37
*8 委員会は1956年4月3日にアイゼンハワー米大統領宛に水爆実験中止を訴えるアピール。第一回のアピールの口調が今の目から見ると多少左翼っぽい論法。他にも米原潜寄港に抗議アピールを数度実施。
*9 アイク歓迎実行委員会
*10 *2のp.38
*11 *2のp.44










# by ferreira_c | 2021-10-08 22:16 | 原子力 | Comments(0)

傾斜生産、ちょっとイイ話~島村原子力政策研究会資料摘録1~


 前から読みたいと思っていた「島村原子力政策研究会」議事録全文*1がダウンロードできることを最近知った。旧科学技術庁の原子力局長などを歴任した故・島村武久*2が1985年から94年にかけて開いた勉強会の録音を起こした620ページの資料である。Level7 NEWSという「東電原発事故の真実を伝えるサイト」と銘打った、いわゆる反原発に近いサイトが数年前に情報公開請求したようだ*3。当該サイトの趣旨は考え方はいろいろ異なるところもあるが、まずは貴重な文書の公開を実現していただいたことには感謝したい。
 この議事録を元にした本は読んだことがあるが*4、読む人によって惹き付けられる場所が違うことを実感した。これから気になるところを備忘のために記しておく。
 まずは原子力とは直接関係無いが、傾斜生産方式について述べたい*5。傾斜生産方式は長らく戦後日本経済復興の原動力と説明されていた。吉田茂の私的ブレーンであった有澤廣巳*6が考案したものをもとに、「国内施策の一切を石炭の増産に集中」、「石炭の配分に必要なる諸資材の確保に最重点を施行」というもので、資材の中では特に鉄鋼を重視した。ちなみに有澤は初代原子力委員会委員であり、委員長代理を務めたのちに、第3代日本原子力産業会議会長(1973-1988)を歴任する原子力に関係の深い経済学者である。
 傾斜生産が始まろうとしていた時、東大物理学教室に在籍した茅誠司*7は、経済学科の有澤廣巳を招いて傾斜生産の何たるかをレクチャーしてもらうこととなった*8。

<以下引用>
茅: いや僕がよく言うのは、経済安定本部で、傾斜生産ってことをやろうと。その傾斜生産ってどういうことか、有澤さんに聞こうってことになって。東大の物理教室に、有澤さんに来てもらった。有澤さんは、良く説明してくれた。その時、嵯峨根*9のやつが有澤さんに、我々のような専門家は傾斜生産にどんな協力ができましょうかと言ったら、有澤さんが考えて、君達ラジオの修理できるかいと。いや、ラジオの修理ぐらいできますよ。それじゃすまないけど、炭鉱のラジオの修理に行ってくれと。それで、我々の部屋もそうです。皆これくらいの箱にいっぱい、コンデンサーや何かいろいろ積んで。それを持って行って修理した。それで、修理した道具や部品がうんと残ってるんです。それを置いてあるから、僕は見るたびにおかしくて笑ってた。
嵯峨根が死んじゃって、その一周忌の時に有澤さんが来て、追悼の辞で、あんなものは何の役にも立たないとあなた方は思ってるかもしれないけれど、あれは非常に大きな役目があった。それっていうのは、常磐炭鉱ですよ。炭鉱の鉱夫は、いたく感激しちゃった。大学の先生が、うちのラジオを直しに来た、これはよっぽど石炭がほしいんだと。
<引用終わり>

 ちょっとイイ話である。茅は自分達はその時代にこんなこともやったという証拠として、箱いっぱいほどのラジオ修理の部材を研究室に長く取っておいたそうだ。しかしながら、その証拠品は弟子たちによってあっさり捨てられたという。ここら辺は戦時中に原爆研究に参画し、戦後は研究費の捻出にすら苦労したであろう京大荒勝研が、全く畑違いのタグチメソッドにも出てきそうな研究テーマのために鉛筆の芯を大量に作り、平成の御代にもその証拠品を研究室が保管してあったエピソード*10とは随分違う。東大と京大の文化の違いなのだろうか? それともたまたまそうだったのだろうか?
 残念ながら現在の評価だと、「傾斜生産方式はアメリカからの援助を引き出したという点で、ポリティカルな意味では成功でしたが、エコノミックな意味ではほとんど効果のないものだった」ようだ*11。実はそれを示唆するような記述もある*8。

<以下引用>
茅: つまり、時の石炭庁長官菅禮之助にお前たち石炭3千万トン掘れと言われたら、これで掘れるかと。炭鉱の鉄パイプに穴が開いてる。鉄のパイプを直すのには石炭が要る。だから石炭がなきゃ石炭が掘れないって断ったんだって。それで、時のワンマン吉田茂総理がトルーマン大統領に要請した、マッカーサーは駄目だった。トルーマン大統領に是非重油がほしいって言ったら、許して重油をくれたんで、それで修理する鉄ができた。その鉄を使って炭鉱を直した。それで、あの時3千万トン掘ったんです。それから朝鮮動乱を経て、ずーっと日本は立ち直ってきた。
石川: 景気が立ち直ってきた。なるほど。
<引用終わり>

 また、傾斜生産の終わり頃から石炭産業が斜陽になりつつある出来事も掲載されている。どのエピソードも時代を感じさせる。これからも気になったエピソードを抽出していきたい。

<以下引用>
島村: 1949年~50年のことだな。
茅: その頃です。
島村: 私はほんのちょっとそれにずれて、商工省の産業機械課長を拝命したんですけど。まだ辞令を受け取ってないうちに大臣室に呼ばれて、陳情団が来てると。何の陳情団かというと、炭鉱にものを納めたけどお金が払ってもらえない、助けてくれという陳情です。機械メーカーの連中が、炭鉱傾斜生産でどんどん炭鉱に納めろというんで、一生懸命になってお金のことなんかお構いなしに協力して、炭鉱機械を納めたところが、金払ってもらえないと、こういうあれで苦労したことがある。その頃から炭鉱も落ち目になってきましたな。その頃までは傾斜生産でいっぱい華やかだった。マル炭と称しまして。
藤波: 私も、電力需給調整を担当してた頃、九州へ引っ張られて来て。肥料会社とか何とかから文句が来て、吊るしあげられるんです。皆停電で、電カセーブして真っ暗なんです。あれを見てくださいって丘の上から見ると、炭鉱住宅だけが(笑い)電気がついてる。他は電気が全然。炭鉱だけが、傾斜生産。
<引用終わり>

*1 島村原子力政策研究会資料、文部科学省研究開発局原子力計画課、2008年6月
*2 島村武久

*3 【文科省】文科省から政府事故調および国会事故調に提出された資料

*4 原子力政策研究会100時間の極秘音源: メルトダウンへの道 (新潮文庫)
*5 傾斜生産方式
 第2次大戦後の日本経済の体制的危機と過小生産を克服するため採られた重点主義的生産政策。1946年下半期から石炭をはじめ電力・鉄鋼等の減産が著しくなったため,1947年初めからすべてが鉄鋼・石炭の生産に集中され,その循環的な増産により基礎産業の復興が図られた。
*6 有澤廣巳

*7 茅誠司

*8 *1のp.39、学術会議と原子力事始め、開催日1985年11月29日、講師:茅誠司 (北海道大学教授、東京大学教授、学術会議会長、東京大学学長)、出席者:島 村武久、藤波恒雄、別府正夫、杉本栄三、堤佳辰、石川欽也、林弘
*9 嵯峨根良吉

*10 「ミリタリーテクノロジーの物理学<核兵器>」~(番外編)

*11 高橋洋一『戦後経済史は嘘ばかり』PHP新書、p.34、2016年


# by ferreira_c | 2021-09-25 02:43 | 歴史 | Comments(0)

核融合の「三重水素」と福島の「トリチウム」

 前々から訝しく感じてきたが、もはや核融合研究者は三重水素(トリチウム)と併記する気がないらしい。
 2019年10月に京都大学発スタートアップとして京都フュージョニアリング株式会社が設立された。主要メンバーとして先日このブログでも紹介した核融合トリチウムの専門家である京都大学小西哲之教授も名を連ねている。
 技術的なことは何一つ間違っていないが、どうして三重水素(トリチウム)と併記することを避けるのだろうか? 核融合の原理、技術的な説明に何度も「三重水素」と出てくるが、少なくとも2021/2/21現在、どこにも「トリチウム」の文字は見当たらない。
 歴代政権が福島第一原子力発電所(1F)で発生し続けている放射性物質トリチウムを含む「処理水(トリチウム水)」の取り扱いをズルズル引き延ばしてきたために、いまや大多数の国民にとって「トリチウム」の印象は最悪と言っても過言ではない。
 核融合の研究者、特にプラズマなどの研究者たちの中には1Fのトリチウム問題をとんだとばっちりと感じている者も居るだろう。しかし、いまここで逃げたら将来の核融合発電の日本での実現に禍根を残すのではあるまいか?
 核融合に関わる全ての研究者は、プレゼン資料の頭のページに「現段階での核融合発電商用炉では、技術レベルとしてトリチウムを使った核融合反応を使わざるを得ません」とまで書く必要はないが、せめて「三重水素(トリチウム)」という表記法とトリチウムが放射性物質であることの脚注くらいは必要ではないのだろうか? まあ、これまでの行状を考えると無理な相談でしか無かろうが。


# by ferreira_c | 2021-02-23 19:40 | エネルギー | Comments(0)

いつ福島のトリチウム希釈放出の安全性を説明するか? 今でしょ!

 本トピックのサブタイトルは” -連載記事「核融合トリチウム研究最前線ー原型炉実現に向けて」について調べてみた(2)-”である。 連載は2018年7月から開始され、2019年9月に終了した。連載が終了してから1年以上経ってしまった。
 以下にトリチウムの表現で㎏、g、mg、Bqのどれを何回用いているのか、次にgとBqの換算係数が書かれているかどうか、また福島のトリチウムに触れているかどうかをカウントし、各記事の特徴的な表現を抜粋した。

「トリチウム安全閉じ込め」、日本原子力学会誌2019年5月号、pp.416-420、Bq3回
※核融合施設におけるトリチウム管理の手法を述べている。Bq表記は4回出てくるものの、1つは作業者の安全基準濃度、2つは計測器の検出感度であり、残りの一つはトリチウム除去システムの能力を説明するグラフの軸ラベルに用いられているだけであり、肝心のITER(国際核融合実験炉)燃料上限については4㎏と記載されるのみでBq表記は無い。
「炉材料表面および内部のトリチウム分布」、日本原子力学会誌2019年6月号、pp.489-493
※核融合炉内材料表面や内部のトリチウム分布状況について書かれた専門的な文章。材料のトリチウム汚染を考えた場合、相対的に表面近傍には内部の10~100倍のトリチウムが偏在することになる。これら表面近傍の偏在分は、内部に溶解したトリチウムの拡散放出が終わりに近づいた後も強く保持されたままで、もっと長い期間にわたって脱離・捕獲による再結合や気相中の水素、水蒸気との同位体交換反応で放出されるので注意が必要。トリチウムはその相対的に短めの半減期、β核種としての透過力から、他の核種に比べ問題視されない場合もあるが、上記の表現を咀嚼すると、トリチウム汚染廃棄物からは、いつまで経ってもダラダラとトリチウムが放出されそうであり、除染するには非常に厄介な廃棄物であることが実感できる。
※※同月号に載っている福島トリチウム関連の記事、「『天文学的』なお値段」p.475
「トリチウム管理」、日本原子力学会誌2019年7月号、pp.549-553、Bq7回
トリチウム水の空気中濃度限度は元素状水素の1/12500である。これはトリチウム水の吸入摂取による内部被ばくの影響が元素状トリチウムの1万倍以上大きいことを反映している。人体への被ばく影響という観点からみれば、水蒸気状トリチウムを1Bq取り込むことは12.5KBqの元素状トリチウムを取り込むことと対応する”
トリチウムが固体中に強固に捕捉されているのであれば、除染をせずに保管するほうが好ましいこともある
※※同月号に載っている核融合関連の記事、「最先端の研究開発 量子科学技術研究開発機構 第5回核融合エネルギーの実用化に向けた研究開発の進展(その1)」、p.543

「トリチウム研究の将来展望」、日本原子力学会誌2019年9月号、pp.680-686、g3回、Bq10回、g-Bq換算1回、福島8回
長い期間をかけて施設を運転し、技術者や運営者の経験を蓄積し、地元社会の理解と信頼を着実に育てるという、「地付き」の技術としての成熟も、核融合実現に向けて不可欠である。それは我が国固有のトリチウム施設として、現在JAEA東海にあるトリチウムプロセス研究棟(TPL)や、富山大学、九州大学などの大学研究施設、あるいは東海・六ケ所の再処理工場やふげんなどの数10年に及ぶ実績の延長にある。これら施設は設計、建設し、小さなトラブルを経験し克服して安全に運転してきた産業界やそれを信頼して受け入れてきた地元や我が国の社会全体で、貴重な経験と信頼を培い蓄積してきた。また一方、この期間に工学研究と並行して環境生物影響も含めた後半のトリチウム研究の進歩も、我が国社会がトリチウムを理解し、制御する上で大きな役割を担ってきたのである。それらを中断なく今後も維持するのみならず、現代から未来に向けた価値観に合わせ、次の大きな進歩を一刻も早く開始しなければ原型炉段階に間に合わない。それどころか、研究活動の維持、人材の育成、経験の継承という意味では、今やこれら重要な研究資産が途切れようとしている。”
最後のまとめの文章で初めて福島というキーワードが出てくる。しかし、核融合トリチウム研究の資産が途切れることを心配する前に今そこにある危機、すなわち福島のトリチウムへの対処が最優先課題なのではないか? 筆者は「地付き」の技術としての成熟と説くが、少なくとも岐阜県土岐市の核融合科学研究所は既にやらかしており、土岐で発生するごく微量のトリチウム水をRI協会に引き取ってもらうという事態に陥っている*1。
”福島のサイトでは2018年時点でトリチウムを約2g(7×1014Bq)含む100万トンの水が蓄積されており、この処理方法、特に環境放出についてはいまだに意思決定がなされていない。ここで重要なことは、トリチウム含有水をたとえ放出し、それが環境中に拡散したところで、周辺住民をはじめ一般公衆には、ほとんど被ばく量を与えないことが理解されているにも関わらず、処理方法が決定していないという事態である。”
※ここでも初めてトリチウムの重量とBq換算が明記された。確かにこの論文は核融合トリチウム研究最前線の特集の掉尾を飾るものであり、トリチウム研究の将来展望を語るものでもある。でも、どうしても他人事のように感じてしまう・・・
”そもそも山菜以外では放射性物質はほぼ検出されていないにもかかわらず販売は極めて困難になっている。農水産物への影響(風評被害)が被ばく量よりも圧倒的な重要度で懸念され、それが仮想ではなく現実の損害を発生している。今後の核融合関係を含む放射性物質の取り扱いに、この事実は重要な示唆を与える。”
※だから、いまこそ原子力ムラの色がついていない核融合関連の人びとが、福島トリチウムの希釈放出の安全性を説明して回らなければならないのではないか?
”風評被害は、トリチウムの引き起こす被害リスクとして健康被害が問題にならないレベルで発生し、おそらく最大の損害をもたらす。”
※すでに核融合のトリチウムと福島のトリチウムを結び付けて危険視している一般人の数は着実に増加しているのではないか? 最後のまとめの章の抜粋は以下のとおり。
”原子力・核融合トリチウムの研究とその制御は、工学だけでなく、環境や生物の理解を通じて一般社会との相互理解と合意の上に成立するものであり、20世紀後半から福島第1原子力発電所の事故を経て、大きな進歩と変化を経験して次の核融合原型炉の段階に進むところに来ている。”
やはり最後まで他人事感が否めない。
”福島第一原子力発電所の事故と、核融合トリチウム研究の進展から必然的に導き出される新時代の放射性物質管理のパラダイムは、工学研究ばかりでなく、環境生物影響の研究者と、それらの成果を総合して社会との双方向のコミュニケーションをとることが必要とされるが、その担い手が決定的に不足している。今後数年の世代間の取組みと社会との連携が命運を握るといえるであろう。”
※これが特集の〆の文章である。今は核融合原型炉云々ではなく、いかに福島トリチウムの風評被害を抑えることこそが将来研究の命運を握っているのではないか? これまで、核融合トリチウムの研究者、あるいは核融合の研究者たちが積極的に社会に発信した印象はない。そのツケは必ず支払わねばならないだろう。
ただ、この論文の一番良いのは世界各国の飲料水中トリチウム濃度限度が約5桁の開きがあることを指摘していることだ。一番高いオーストラリアでは76,103Bq/LWHO、スイスは10,000Bq/L、重水炉を数多く運用するカナダとロシアは7000Bq/Lアメリカは740Bq/L、最も厳しいEUでは100Bq/Lとなっている。福島以降、我が国の飲料水放射能はセシウムで20Bq/L以下とされているがトリチウムについては決まっていない。こういうファクトから丁寧な議論を重ねていくべきであろう。
*1 日本の核融合研究投了、関連予算は全て他に回すべきである

# by ferreira_c | 2020-12-19 00:19 | 原子力 | Comments(0)


blogに名を借りたほぼ月記。軍学者兵頭二十八に私淑するエンジニア。さる業界所属ゆえにフェレイラと名乗る。
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