昨今、「表現の不自由展・その後」に関する騒動が起こっている。それを巡る普段身近にいる人々の行動、言動から
「あ、この人はこういう考え方なんだ」
と発見できるリトマス試験紙にもなっていた。まあ、長年の個人の付き合いがこの一件をもって終わるわけではない。人は人、我は我、されど仲良し、というところであろう。
今回の問題とされた作品群から思うのは、その狭さである。例えば一部のイスラム教徒によるテロが世界で頻発しているのは周知の事実である。イスラムの教義の持つ前近代な点が遠因と指摘されることも多い。だからと言って聖典が焼かれるような「芸術表現」を見たことはない。共産主義体制下で頻りに無辜の民を殺傷した責任者であるレーニン、スターリン、毛沢東、ポル・ポトその他の肖像画が焼かれる「芸術表現」も見たことはないし、チベット、大躍進、文化大革命、天安門等でいろいろ言われている中華人民共和国の国旗が足蹴にされる「芸術表現」も見たことはない。
さて、今回の「芸術表現」である。もしかすると私が先に挙げた「芸術表現」は既にあるけれども、今回の主催者の目に留まらなかっただけかもしれない。しかしながら、美術展を開催するほどの方々ならば、アメリカ、日本だけでなく、すべての政治体制、主義、思想に対するプロテスタントを表明している「芸術表現」を草の根分けて探し出しても出品させるべきだったのではないか? そうすれば主催者の意図する表現の不自由の根源を問いかけるものになったかもしれない(まあ、今の作品を見る限り、その可能性は大変低かったと思うが)。
ありとあらゆる「芸術表現」が無いと言うならば、そもそも今回の出品者は文句が出そうに無い、あるいは命に危険が及ばないレベルで最大限に注目を浴びる作品にしたということだろうか? 別に表現自体の自由はあるし、そもそも芸術家は食っていかないといけないのだから、あとは個々人の判断であろう。