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消えた核科学者 -日本原子力研究所の場合-

 先日、普段は訪問者もまばらで閑古鳥の鳴いている拙Blogに随分とアクセスがあった。検索ワードを調べて見ると、「動燃 消えた科学者」とある。どうやら日刊ゲンダイで始まった連載に呼応していたようだ*1。そうであるならば、日本原子力研究所(原研)における研究者の失踪事件について述べておくこととする。ただし、原研のケースでは向かった先は中華人民共和国(中共)という噂になっていた*2。


<以下引用>
p.959「嘘ではない、中共・東海村原子力研究所」
 昭和三十六(1961)年正月のこと。東海原研の第一号研究炉に勤務していた塚本という研究員が、正月休みで独身寮から帰省の途中、まったく忽然と消えてしまった。新聞紙面をも大分賑わせ、当局も手をつくして捜索したがまったく足取りすら掴めなかった。その塚本研究員が、どうも中共に生存して働いているらしいという噂が、それとなく原研内部で、はなしとしてではあるが流れているのである。
<引用終わり>

 失踪事件が起きて約3年弱、思わぬところから失踪事件を想い起させる出来事が起きた。しかも発端はイギリス議会であった*2,3。しかしながら、当時は原子力の日の由来である動力試験炉(JPDR)による発電(1963年10月26日)から3日後のGE申し出による運転停止に始まる様々な調整をしていた期間(11月20日再開)であったことも手伝い*4,5、僅かに主要新聞がお義理に夕刊二面で報じた程度であったという。

<以下抜粋引用>
p.954「中共の原爆は日本人が作っている」
 ロンドン(1963年11月)18日発ロイター電、英国下院での日英原子力協定に関連した質疑。
多数の日本人原子科学者が中共で協力し、働いているという情報がある。英国の原子力の情報が日本人科学者を通じて中共に流れ、核拡散に利用されないように同協定に規定してもらいたい」
 英労働党ウッドバーン下院議員*6の政府保証の要求に対し、トーマス外交担当相*7は、
「この件について問合わせている。この問題について全く関知していないが、調査する」
と答弁。
<引用終わり>

 一方、外電については関係官庁の対応は"キツネにつままれた"ようであったらしい*2。

<以下抜粋引用>
p.954「中共の原爆は日本人が作っている」
科学技術庁「日英原子力協定は平和利用のための情報交換に限定。中共の核開発に協力とは日本の原子力研究も買いかぶられたもの」と首をひねる。
外務省「英国からの問い合わせも受けず。日本の原子科学者の中にはたまに中共に招待される人もあろうが、ココムと違って人間の禁輸は難しい」と取合おうとせず。
<引用終わり>

 ちなみに行方不明になった塚本修(昭和七(1932)年生)研究員は若手の研究員として実力は高く評価されていたらしい*3。ただし、原研の大卒公募第一期生の一人で、後の原子力安全委員会委員長となった佐藤一男(委員長在位:1998年4月21日 - 2000年4月6日)はインタビューで塚本氏のことを次のように述べている*8。果たして、実際の塚本氏の運命はどのようなものだったのだろうか?

<以下引用>
中村 オペレーターだったかな? どなたか一人行方不明になり、中国へ行って原爆造りを指導してるんじゃないかなんてウワサが流れ、大ニュースになりましたね。
佐藤 そうでした。私は彼と一緒に仕事したことがありまして。でも、私より後の入所の人だから経験も浅く、いくら何でも原爆製造の指導だなんて考えられませんよ(笑い)。しかし、確かに一時話題になりました。
<引用終わり>

 全貌はそもそもこのような日本人が中共の原爆製造に加担している疑義が英国から出されたことに関して、数年来の日本の科学者の行動によるものではないかと推測する。最後に失踪事件の前後に日本と中共の交流、特に科学的な部分にスポットを当ててみることでこの項を終わりとする*3,9。

<以下抜粋引用>
昭和30(1955)年
3月 原子力海外調査団帰国。一行中の伏見康治教授は民科*10のメンバーだったため、イギリスで入国拒否される。
5月 学術会議視察団一行、中共訪問。
11月 民科京都支部物理部会で藤本陽一教授*11が中共への研究協力問題を提案-「日本では物理学者の研究難が深刻だが、中国では建設のために多数の科学技術者を必要としている。そこでひとつ中国へ就職することを考えてはどうか。幸い近く『訪日中国学術視察団』が来日して京都でも懇談会が開かれるから、そのさいこの話をもち出してみては・・・」と発言*12。これを契機に科学の国際交流を通じて日中国交回復に寄与するという名分がうち出された。
昭和31(1956)年
5月 坂田昌一教授*13が中国科学院から招待で中共訪問。
昭和32(1957)年
5月 物理学会全体として「訪中使節団」(朝永振一郎団長、二〇名)を送り出すまでに発展。北京で周恩来、郭沫若と懇談。「日中物理学会の交流促進に関する覚書」を交換し、各地研究所を訪問し、講演、講義を行った。
昭和33(1958)年
5月 長崎国旗事件以降*14、日中交流は中絶、科学交流による就職問題も立ち消え。しかし1960年6月のソ連からの技術援助停止にともない自力建設を進めるため対日政策を緩和したためヨリが戻ろうとする傾向があり。
昭和38(1963)年
10月 東大原子力工学の渡辺茂教授を含む「日本高分子代表団」が訪中、北京で昭和39(1964)年に原子力発電関係の科学者の訪中を中国科学院と協議。
11月 中共学術代表理科学院半導体研究所長の王守武は、電気試験所田無分室、東大原子核研究所、東大電子工学科、物理研究所、日本原子力研究所を訪問。全施設を視察。この際、来日目的について「中国は原子力研究の分野で非常におくれているので日本から学ぶため」と語る。一行の来日に対しては、歓迎実行委員会が中心となり、日本学術会議も組織をあげて便宜をはかり、京大では懇談会を開き日中人民の共同斗争の必要性、日本の革命運動の支援などと受け取れる挨拶が行われた。
昭和39(1964)年
8月
 世界科学者連盟(共産系)の中の中共派科学者だけで44カ国367名が集った北京シンポジウムに坂田団長を始め61名参加。大会最終日に坂田教授は陳毅副総理、郭沫若科学院長らを前に「科学の世界に吹きはじめた新しい風は、かならずや古い風を圧倒するであろう」と述べはげしい拍手をあびた*15。中共要人は踊りあがって喜び、以後このくだりはしばしば引用される名句となった。中ソ対立深刻化のおり、おそらく中共の科学がソ連をやがて圧倒する、「日本の科学者がソ連にとって代って中共に協力する」という意味で使用されたものであろう。
日本人科学代表団にたいして、中共側は毛沢東主席、劉少奇国家主席、鄧小平総書記ら、病気静養中の周恩来総理をのぞいた首脳陣が総出で歓待にこれつとめたと言われる。
<引用終わり>

【補足1】塚本研究員が著者の一人となっている論文と、失踪当時の記事が見つかったので下記に示す*16,17。新潮の記事は目次、見出しのみだが時間があれば取り寄せてみることとする。
【補足2】科学技術分野における日本と中共の連携を示すページを示す*18。

*1 消えた核科学者 警視庁拉致関係リストの真実“動燃プルトニウム製造係長は72年に独身寮から突如失踪した”、日刊ゲンダイDIGITAL
[url] https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/271474

*2 全貌、全貌社、昭和39年1月号、954-959ページ、"原子炉の火を消した共産党細胞-東海村は中共の原子力開発のテスト機関なのか?・・・(ロイター電要旨)-"、1964年
*3 全貌、全貌社、昭和39年11月号、22-30ページ、"安保騒動の再現を狙う 原潜寄港反対運動の演出者たち"、1964年
*4 あの日、あの時 科学技術庁40年の歩み、電力新報社、93ページ、"ある原子炉の一生-JPDRの建設から解体まで-"、石川迪夫、1996年
*5 何故、原子力の研究機関は統廃合されたか? (番外編)原子力の日に想う
[url] https://ferreira.exblog.jp/21365673/

*6 Arthur Woodburnというスコットランド出身の議員を指すと思われる。
[url] https://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_Woodburn

*7 Peter Thomasというヒューム内閣(1963/10-1964/10)の外交担当相(Minister of State for Foreign Affairs)を指すと思われる。
[url] https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Thomas,_Baron_Thomas_of_Gwydir

*8 あの日、あの時 科学技術庁40年の歩み、電力新報社、80ページ、"日本初の「原子の火」がともった頃"、佐藤一男、1996年
*9 当時は中共とは国交は無かったが、1952年の朝鮮戦争終結後に日中貿易協定が結ばれ徐々に日中貿易は伸びていった。しかし、1972年の日中共同声明までは日本国が正式な外交関係を有する中国と言えば中華民国(台湾)であった。
*10 民主主義科学者協会(民科):日本の進歩的な自然科学者・社会科学者・人文学者の左派系協会、1946年1月12日創立。指導部は実質的に日本共産党の影響下にあったが、発足当時は共産党の政治的指導はゆるやかであったらしい。1950年代に入ると日本共産党(所感派)の手で、民科内部に政治的課題が持ち込まれたという。1957年に本部事務所閉鎖。ちなみにミチューリン農法を支持していたらしい・・・orz。
[url] https://ja.wikipedia.org/wiki/民主主義科学者協会

*11 藤本陽一、物理学者。大正14(1925)年生まれ。昭和31(1956)年東大原子核研究所教授となる。38(1963)年早大教授、同大理工学研究所長。
*12 広重徹、“戦後日本の科学運動”、中央公論、191ページ、1960年
*13 坂田昌一(Wikipedia)、いわゆる赤色物理学者。また別で述べたい。
[url] https://ja.wikipedia.org/wiki/坂田昌一

*14 長崎国旗事件(Wikipedia)
[url] https://ja.wikipedia.org/wiki/長崎国旗事件

*15 全貌、全貌社、昭和40年5月号、30-34ページ、"名古屋大学は赤い大学-かくされた日共の大細胞-"、1965年
*16 日本原子力研究所JRR-1管理課他、日本原子力学会誌3(1)、ページ40-54、 1961、"燃料溶液を中心としたJRR-1の総合試験, (I) 全般的考察"、1961年
[URL] https://doi.org/10.3327/jaesj.3.40
*17 週刊新潮、9(46)(456)、1964年11月
"東海村の失踪人塚本修--原研所員中共潜入説の攻防"、ページ122-127
[URL] https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3377326
*18 日中科学技術交流協会 設立の趣旨と沿革
[URL] http://jcst.in.coocan.jp/page02.htm

by ferreira_c | 2020-04-15 21:14 | 原子力 | Comments(0)
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blogに名を借りたほぼ月記。軍学者兵頭二十八に私淑するエンジニア。さる業界所属ゆえにフェレイラと名乗る。
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