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摘録 雑誌全貌昭和50年2月号「特報“学者の国会”日本学術会議の内幕」

 先日、投稿したトピックスの内容から遡ること八か月。雑誌全貌*1だけでなく、毎日新聞にも掲載されたという“学術会議良識派の伏見康治”の内部告発を巡る騒動を中心にまとめた。ちなみに、1974(昭和49)年の11月29日に第10期の学術会議選挙の当選者が発表されたそうだが、雑誌全貌の分析では新会員の40%を左翼系学者が占めていたという。当時は有権者18万人、当選者210人。7月25日に立候補受付締め切り、8月20日の官報に立候補者氏名が公示されて選挙運動開始、11月25日投票用紙郵送締め切りという流れだったようだ。記事の最初の写真が福島要一となっていた。
<以下抜粋引用>
“奇怪なその楽屋裏”
 昭和四十九年二月、サンフランシスコで開かれた全米科学振興協会(AAAS)*2の年次総会に学術会議伏見康治副会長はレポートを提出した。伏見氏が病気欠席したので福島要一会員によって代読されたのだが、この取り合わせが、まことに妙である*3。
 なにしろ伏見副会長といえば、学術会議の良識派、つまり日共系学者の巣窟といわれる学術会議のなかで反日共派の象徴のような人物だし、片や福島会員といえば、学術会議内の日共系の超人的オルガナイザーとして著名な人物。
~中略~
“伏見副会長の内部告発”
 さて、その福島会員が代読した伏見副会長のレポート(英文)は、まことにどうもたいへんな告発状であった。曰く、-
「私は、選挙という手段で選ばれた人(学術会議会員)が、第一級の科学者であるといわれるよりは、政治的なことに熱心だといわれる傾向の者であるのを、指摘しておきたい」
「政府予算で支えられている(学術会議という)機構が、政府の施策に不賛成だと忠告することは、明らかにジレンマである。こういう学術会議に対する政府の態度は、学術会議が創設されてしばらく後に、つめたいものとなったが、それは当然であろう」
「政府のつめたい態度を招く責任の一半は、学術会議にある。学術会議の幾人かの会員が“政府からの独立”という学術会議法の文言を“政府の方針と常に反対である”という意味に理解している、その傾向を否定できないでいるからである」
 この報告が昨年(1974年)二月二十六日の毎日新聞に報道された。しかも、ごていねいに、前記「第一級の科学者であるといわれるよりは、うんぬん」の部分が
「学術会議は第一級の学者よりも、政治的な二流、三流の学者の集まりである」
 と訳されて報道されたから、学術会議の内部はテンヤワンヤのさわぎとなった。
 ここで、怪談がある。
 この伏見レポート、伏見副会長が事前に学術会議の運営審議会に提出し、万場異議なく了承されたという事実である。
 運営審議会といえば、会長、副会長(二名)一部から七部までの各部の部長、副部長、幹事からなる同会議のいわば執行部であり、中枢機関であって、とかく「日共に忠実」「アンチ伏見」といわれる機関だ。
 しかし、その運営審議会が万場異議なく認めたレポートなら、まず「学術会議公認」のレポートというべきもの。それが「第一級の科学社よりも、うんぬん」だからテンヤワンヤも当然なら、一番ショックだったのは当の運営審議会であったろう。
 真相は、その伏見論文が英文で書かれていたためらしいが、そうだとすると、はしなくも、いや「恥かしながら」運営審議会は、英文も読めない「政治的な二流、三流の学者の集まり」という伏見論文を認知する結果になったわけである。
<引用終わり>
 さて、伏見康治の内部告発についてであるが、これはほぼ事実だったのではなかろうか? 何といっても1971年に西山事件*4と大きく関わってくる毎日新聞が報じたのであるのだから。ただ、もしかすると記事の翻訳がより強烈になっているのは、当時の日本共産党における内部抗争等が関わっているのかもしれない。あと、伏見論文の内容は殆んど読んでなかったのではないか? まさか良識派の伏見氏が国際会議の場で自分たちを告発することなど夢にも思わず、長文の英語論文も読むのが面倒くさく、そのまま回覧印が押され続けたのではないだろうか?
 その後の日本会議の対処の仕方がいかにも全体主義政党の流儀らしくて微笑ましく感じる。
<以下抜粋引用>
“これでも「学者の国会」”
四十九年四月の学術会議総会は、この伏見論文をめぐって大論争に発展した。
左翼系、特に日共系の会員五人が、入れ代わり立ち代わり、大島教授のスッパ抜きではないが、あらかじめ演出されていたように伏見攻撃に立ちあがり、最後にレポートを代読した当の福島会員が立って、
「伏見博士は、学術会議がつねに政府に反対することで、政府から独立していると理解している会員が数人いると指摘していました。しかし、私はこの説明が事実だとは思いません。少なくともそれは極端な見方だと思います。会員の大部分は、戦争中の反省から、新日本を平和国家たらしめたいと考えています。ところが政府は、これと反対に平和維持のためには強力な軍を持とうとする傾向にあります。両者の意見の相違は致命的です。私は、伏見博士の説明のような会員はほとんどないと信じます」(要旨)
 議事とりまとめの名手といわれる福島会員らしい発言だが、その内容はやはり「学術会議は政府と対立関係にある」ということであり、伏見副会長の正当な指摘と相応しているのである。
 この間、伏見副会長は終始毅然と反対論に応対し、持説をまげなかった。
 が、後に運営審議会がまとめた「総会報告」には、
「伏見副会長名でAAASに提出した講演要項に、本会議に関し、国際的誤解をまねく表現のあることが多くの会員から指摘され、同副会長は遺憾の意とともに、今後学術会議の相違にもとづいて慎重に言動することを表明した」
 とあり、事実を曲げて「報告」している。こういうあたりが、学者の国会らしい取りつくろいというものだろう。
<引用終わり>
 思うに、日本学術会議が日本共産党に浸透されたのは、「反戦平和」と「学問の自由」を前面に押し出した統一戦線戦術に屈したからではないか? 終戦直後の大学人、研究者で、この二つを前面に出されたら、なかなか反論できなかったのではないか? あと、死刑廃止運動に突っ走る現在の日弁連と同様、普通の人は本業で忙しいので政治的活動をする暇などなく、結果的に少数の活動家がヘゲモニーを握るという悪循環に陥っているのだろう。
 この頃、日本学術会議では三つほど大きな動きがあった。1973年2月26日の筑波大学法案への反対声明、1974年春の総会でのメインテーマの一つであった「中島篤之助会員」の問題、文部省学術審議会解散要求であった。このうち中島篤之助問題については、原子力に深く関わる事でもあるので、次の機会に回したい。一つだけ気になったのは、このブログでも取り上げた科学技術庁の管轄であった分析研究所関連の不祥事に関しての記述である*5,6。
<以下引用>
 そういえば四十九(1974)年五月、科学技術庁の松田課長補佐ほか一連の汚職事件による懲戒人事があったが、そのドサクサにまぎれて分析研究所関係の資料が持ち出され、いまなお行方不明の原簿があって、その一部の資料を流したある人物が日共からどえらいご褒美をもらったというウワサもある。
 日共は原子力行政に対し「民主・自主・公開」のいわゆる三原則をつよく主張しているが、スパイまがいに「公開」されては、行政に重大な影響を与えることがありはしないか。
<引用終わり>
 さて、この項は文部省学術審議会解散要求について述べることで終る。
<以下抜粋引用>
「日本共産党の基本政策」によれば「科学、文化の民主的、多面的発展をはかる」ための方針の一つに「学術会議の尊重」があげられ、そこには、
「政府、自民党の日本学術会議にたいする干渉をやめさせ、学術行政の国家統制のための科学技術会議、文部省学術審議会を解散し、日本学術会議の勧告を尊重し、実行させる」
 と述べてある。
 その学術審議会(茅誠司会長)が四十八(1973)年十月、文部大臣の諮問にこたえて「学術振興に関する当面の基本的な施策について」を取りまとめた。
 全部で二万五千字にのぼる答申で、学術研究、特に基礎研究の持つ意味や、学術研究をめぐる一般的状況、つまり学術振興の条件と基本的考え方を前提とし、研究組織の体系の整備と改革、研究投資の拡充、研究者の養成と研究支援組織の充実、国際的に開かれた研究組織の確立と国際交流の促進、学術情報の流通体制の改善など、多岐にわたって、基本的な学術振興の施策の提案を行なったものである。
<引用終わり>
 その答申に対して学術会議は五か月経って総会で見解を決定し表明した。全二千字。民主的な研究、教育体制の尊重とか、官僚的統制の危険とか抽象的な文言に終始し、最後に以下のように結んだ。
<抜粋引用開始>
「本会議は、この答申に対して、全面的に賛成できないこと、今後の検討と勧告を通じて積極的な見解を提出する予定であることを明らかにしておく」
~中略~
 学術会議と学術審議会は文部省の年十億円にものぼる科学研究費の配分を決めるについて、学術会議がきわめて恣意的な審査委員の推薦を行なう慣行があったため、去る四十二(1967)年に学術審議会が研究費の「新配分方式」を答申し、以来、科学研究費の配分が適正に行われるようになった事実がある。
 いずれにせよ「文部省学術審議会を解散し、日本学術会議の勧告を尊重し、実行させる」日共のタクトどおり学術会議は踊っているようにみえるのだが、どうなのであろうか。
<引用終わり>
 何度も触れるが、雑誌全貌はいわゆる当時の反動雑誌である。しかしながら、公安関係からのリークに基いて執筆されていたという話もあるので、記事の信ぴょう性はそれなりであるとは思う。

*1 全貌社とは


*2 全米科学振興協会


*3 伏見康治、「時代の証言」、同文書院、1989年、p.134-135の写真群には、福島要一と一緒に写った写真が二枚ある。伏見は福島個人については特別な感情はなかったのかもしれない。また、戦時中の写真で火鉢を抱えながら講義しているものがある。時代を感じて面白い。
*4 西山事件


*5 単なる個人遊興費捻出目的だったのか? -財団法人分析化学研究所データ流用事件-


*6 何故、原子力の研究機関は統廃合されたか? (3)赤い原研(番外編)島村武久と橋本清之助



by ferreira_c | 2020-10-14 00:21 | 摘録 | Comments(0)
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blogに名を借りたほぼ月記。軍学者兵頭二十八に私淑するエンジニア。さる業界所属ゆえにフェレイラと名乗る。
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