人気ブログランキング | 話題のタグを見る

負ケラレマセン勝ツマデハ



摘録 雑誌全貌昭和43年12月号「緊急特報 日本学術会議へ浸透する日本共産党」

 先日、投稿したトピックスの内容から遡ること約六年。先の投稿でも触れた文部省学術審議会に関する話題と学術会議選挙に対する日本共産党のあり方をまとめた。
 まずは、昭和43(1968)年度に文部省の科学研究費補助金(科研費)の配分が「学術審議会」の審査によることになったため、左翼系の会員が来年度から日本学術会議に審査の主導権を奪回しようとして執行部をつきあげている場面から(日本学術会議第五十一回総会、第一日目の午後四時四十五分頃)。ちなみに突き上げられている会長は日本人二人目のノーベル賞受賞者の朝永振一郎である*1。
<以下抜粋引用>
古林喜楽会員(神戸大学教授)*2
「学術審議会の審査委員になられた方々は実に肩身のせまい思いをされた。私どもに顔を会わせるのを避けるようにされたが、そういう委員が審査したのは大問題である(審査委員には昨年、学術会議が推薦を拒否したことから、文部省の学術審議会は独自に任用したが、その中に学術会議の会員がおり、それらの委員をさす)。文部省は、こんなコソ泥みたいなことをしては駄目である。」
潮見俊隆会員(東大教授)*3
「審査委員はどのように参加されたか」
古林喜楽会員
「これを会長に聞くのは無理だ。会員の中で審査委員になった人に聞くべきだ」
野村平爾会員(早大教授)*4
「四三年度は現実にどのように審査が進められたかが、はっきりしていない。委員については解っている者もあるが-」
古林喜楽会員
「それに関連して、審査委員の名簿はまだ配布されないですか」
朝永会長
「四三年度は結果は聞いているが、実際にはどういうふうに学審の方でおやりになったかきいていない。また名簿とのことでしたが、まだ手に入っていないが後程おくばりできると思います」
木村礎会員*5
「審査の仕方についてお聞きするが、四三年度は審査委員はどんな形でされたのか、たとえば二段審査法(書類審査、金額査定)が手渡された資料にのっているが、そのうちどれにあてはまるのか、また私の所属する学会(日歴協)では審査委員が孤立して単純評価にとどまっていると聞いている*6」
福島要一会員
「さき程の野村意見もそうであったが、我々が四三年度に関してどのように審査配分がおこなわれたかわかってないので、研究費委員会ではやく、文部省から公式に文書ででも、こういうふうに審査配分をやったという返事を得るように交渉してほしい」
井上清会員(京大教授)*7
「日歴協の京都在職者五〇数名では、四三年度においては審査委員候補者を日本学術会議を通ずることなく直接文部省に推薦して、異常事態下の本年度においても研究者の自主性にもとづいた配分方式を維持しようとしたが、本年度の審査方式(二段審査)では第一段審査にあたった者からによると、お金が全体でいくら来ているかもわからず、具体的内容も教えられずに行う審査方針に問題があり、平等な審査ができないとのことであった。また第二段審査会の中に運営委員会を作ると、二段審査ではなく、実際には判断審査になってしまうものである」
<引用終わり>
 雑誌の編集部が意図的に左翼系の学者の発言を集めたのかもしれないが、福島要一と朝永振一郎を除くと発言者が全て文系の教授というのも当時の日本学術会議の特徴の一つかもしれない。総会の最終日においては大学問題が取り上げられた。二人の会員の意見が取り上げているが、そのうちの一人の意見を引用する。
<以下引用>
林要会員*8
「大学問題は学生問題が基礎であると思う。それから全学連だ、ベ平連だ、トロツキストだとか反日共だという形でいろいろいわれているが、問題は、そんな部分的な闘争ではなくて、彼らがそういう行動を取らざるを得ない社会状況にある。これは結局、体制に対する不満の状況を誰も満たしてくれないというところに根があると思う。これはどこの大学にでもあることであるが、それが学問の分野に学術体制と結んで出てきている。大学の自治は、以前は宗教の圧力、あるいは政治権力からの圧力から研究の事由を守るためのものであった。いまでは中から大学の自治をこわすものがでてきており、これが大学全体の動きを規制する要素ともなっており、むしろ障害となっている面がある。これを警察権で阻止せんとすることはできない。警察力で入ればますますバリケードは大きく固くなるであろうし、単にそれだけで解決するものではない」
<引用終わり>
 前にも述べたが、戦前、戦中の大学人への圧力、弾圧の記憶が生々しかったころに「学問、思想の自由」や「大学の自治」を掲げるのは、自らの意見を強調するために有効だったのであろう。しかし、大学内でバリケードを作っている勢力があった場合、どうやって解決するのだろう? 時あたかも東大安田講堂立て籠り真っ最中、他にどんな解決方法があったのだろうか? この発言は総会の最終日の「学問・思想の自由委員会」でのものらしいが、この委員会でも日共党員や左翼系会員の独壇場であり、大学紛争を単に学校制度の弱点や社会体制の責任にすりかえており、自ら反省しようとしない感じであったらしい。当時の全貌の大学紛争要因は以下のような分析だが、多分ほぼそのとおりだったのではないか?
<以下引用>
今日の大学紛争の要因が、日教組をはじめ、これに理論的支柱を与える左翼的講師団(日本学術会議内の日共党員などは大部分が講師団となっている)の偏向教育の結果であることは、一般にはあまり知られていないが事実である。かれらに指導される日教組は純真な児童の魂の中に偏向教育による反政府、反権力的な物の考え方をたたき込み、自らは政治闘争のために実力行使を行なって童心にその範(?)を示している。左翼的な教授は大学紛争で学生が手に負えなくなると社会体制の責に転化して敢えて恥じない。これら日本学術会議会員内の左翼的学者文化人こそ、その責任を社会的良心において追及されるべきであろう。
<引用終わり>
 さて、日本共産党であるが、第九回党大会(1964(昭和39)年11月24日 - 30日)で以下のように学者文化人の役割を高く評価しているそうである*9。
<以下引用>
「知識層は“世論”形成のうえだけでなく大衆運動にたいする思想的影響の点からも見のがすことのできない顕著な役割を演じている」
<引用終わり>
 その手法の一例は後述するが、日共系の民科*10は組織的、計画的にある程度の会員を当選させることに成功した。上述の「学問・思想の自由委員会」の14名の委員のうち、この記事時点では日共党員5名、シンパ4名で左翼系学者は7割を占めていたそうだ。民科の成功に味を占めた日本共産党は1969(昭和40)年12月4日に日本科学者会議(日科)*11を創立に深く関与したという。ただ、この頃は一口に共産主義にシンパシーを抱くと言っても内実は細分化されていた。本来、政治色が薄いはずの日科であるが、日共と中国共産党(中共)の対立の影響を受け、第二回北京シンポジウムへの参加運動*12をめぐって、中共系の学者、名大を中心とする中部地方の学者、京大、大阪大を中心とする関西地方の学者が多数脱落したそうだ。そのため日科会員で京大の会員は学術会議会員選挙で推薦されなかった人々がいたらしい。
 本題の第八期日本学術会議の選挙(1968年11月25日)である。Wikipediaの日本学術会議のページを見たところ、第三期の後に選挙方法が見直され、第四期選挙では改善効果が見受けられたと書かれている。以下に雑誌全貌に書かれた選挙戦の様相を引用する。
<以下引用>
今回の立候補者は定員二百十名に対し二百六十四名であるが、これは今年の三月末で締切った有権者約十六万三千六百四十三名によって、投票用紙を郵送する方法により選挙されるものである。
~中略~
 その(有権者の)資格には
①学歴としては大学卒業後二年、短大卒業後四年以上の者
②研究業績報告は九年以内に専門学会誌、学術誌などに掲載されたことがある者
の二つの条件が必要である。
~中略~
 日共はまず、有権者としての資格を登録するよう注意を喚起している。
 昨年(1967年)の十一月十五日付の「赤旗」において、「日本学術会議有権者資格の基準とその取り方」と題して、読者は勿論、資格をとれる人々は全員獲得することを要望した。
 本年(1968年)二月七日には「赤旗」で「日本学術会議第八期改選、有権者登録は三月三十一日まで」と題して
「日本学術会議の弱体化と研究の官僚統制をねらった学術審議会の設置や日米科学協力のいっそうの強化をねらう日本学術振興会の特殊法人への切りかえ、科学研究補助金にたいする学術審議会の露骨な干渉など、政府自民党による反動的文教、科学政策が強められているなかで行われる学術会議改選は、きわめて重要です。―党員科学者はもちろん、民主的な科学技術者のなかにひとりとして未登録もないよう、ただちに登録手続きを取ることが強くのぞまれています」と要望し、「登録申請の手続」を解説している。
 同じく三月十三日の「赤旗」で「必ず登録しよう」と「政府自民党があの手この手を使って日本学術会議の骨抜きをねらっているとき民主的科学者は一人のこらず忘れずに」登録を呼びかけている。
 日共は一度、候補者二六四名が七月二十五日に決定すると、左翼学者の当選を期することに狂奔する。
 九月十一日の「赤旗」では「日本学術会議は学術会議法に定められたその機能と責任をはたし、日本の科学技術の自主的民主的発展のために民主的に強化されることが強くのぞまれ、そのためにこの方向で活動することを決意している立候補者が一人でも多く当選することが強く期待されている」と-望まれる民主的な科学者の奮闘―を強調し、日共傘下の日本科学者会議の推薦候補四十八名を発表した。
 ついで九月十八日には日本科学者会議の声明の全文をあげて-民主的科学者の奮闘を期待し、-日本科学者会議の追加推薦候補七名をあげている。
 この間、日共の「赤旗」は、文部省の科学研究補助金の新配分方式に対して反対的態度を煽動し、或いは佐世保港の放射能汚染問題をとりあげて政府の攻撃を行ない、科学者の結束を図って、日本学術会議への左翼科学者の進出を強調している。
<引用終わり>
 お次は日科である。日共の息がかかっていると言われる団体は、だいたい声明等が日共の主張と大筋で一致している。全貌は日共傘下の日科と断定しているが、以下に日科の選挙工作を引用する。
<以下引用>
日本科学者会議は第三回全国大会((1968年)六月八、九日)において「一人でも多く民主的科学者を同会議に送るために会員立候補者として推薦する」ことを決定し、その後、六十名の同会議の推薦候補を発表した。
さらに九月一日の全国常任幹事会の「声明」となったのであるが、その中で、
「-政府は、日本学術振興会の特殊法人化、学術審議会の設立、科学技術基本法案の国会上程、科学研究費配分方式の改定などにより、日本の科学者の総意を結集すべき日本学術会議の存在意義を約するような反動的学術行政をおし進めるとともに、学術会議の予算や人員を極力おさえて活動を始めようとしています」
 と政府の科学行政を批判し、
「科学者の総意の下に、人類の平和のため、あまねく世界と提携して学術の進歩に参与するよう万全の努力を傾注することができるように、民主的な科学者を一人でも多く会員として選出されることを」と、日本学術会議を牛耳るため左翼学者の選出を呼びかけている。日共は各地の党員科学者をして専門分野毎に、あるいは支部毎に選挙活動を行なっている。
<引用終わり>
 全貌の分析によれば、第八期会員選挙における立候補者264名に対して日共党員と想定されるのが30名、日共シンパ、左翼的学者が63名の合計93名が左翼系で、全候補者の35.2%を占めたという。詳細分析で部門別人数を見ると非常に興味深い。
<以下引用>
法学関係の二十三名をはじめ、六部(農学)の十九名 第三部(経済学)の十五名 第四部(理学)の十五名 第一部(文学)の十二名 五部(工学)の四名となっている。
<引用終わり>
 工学部の人数が著しく低いのは単に政治活動に時間を割くほど暇ではなかったのだろう。理学部は伝統的に左系の多い物理学が入っているからだろう。農学、医学の人数が多いことの分析は以下のとおり。農学については福島要一の意向もかなり汲んでいるのではないか?
<以下引用>
従来、左翼的学者の進出が少なかった第六部(農学)や、皆無であった第七部(医学)関係の立候補が目覚ましく
~中略~
 とくにこれらの候補は日本科学者会議の推薦者が殆んどであるところからみると、最近、日共が農村工作を重視し、全国的に拠点を作りつつあり、或いは東大医学部の紛争の中核は日共系であることなどからも、日本学術会議への浸透によって、この方面の行政、予算の立体的運用と進出を図ろうとしているとみられる。
<引用終わり>
 最後に全貌分析による日本学術会議への左翼系浸透率でこの項をまとめる。第六期会員(1962(昭和37)年)では左翼系立候補は全候補者の21.9%を占め、当選者は全体の20.9%の45名、第七期会員(1965(昭和40)年)では立候補は26.3%、当選者は27.5%の60名、第八期は全候補者の35.2%の93名が立候補していた。第七期と同様の当選率を当てはめると80名位の当選可能と分析している。ちなみに、1974(昭和49)年の11月29日に第10期の学術会議選挙の当選者が発表されたそうだが、雑誌全貌の分析では新会員の40%を左翼系学者が占めていたという*14。
 学術会議摘録は本記事でひとまず終わる。今後は原水禁運動の発端となった安田郁をはじめ、全貌に掲載された興味深い記事を摘録したい。
【補足1】雑誌全貌の日共系記事を読みすぎたため、「民主的」「反動的」というキーワードの出現頻度に些か辟易してしまった…
【補足2】雑誌全貌が公安リークに拠ったのではないかという推測を裏付けるブログを発見したので引用しておく。
<以下引用>
 私のいた四国の国立大学(1960年代後半)に限って、少し書いてみたい。
 その大学は、私が入学した1964年春には民青同盟員は60人に過ぎなかったが、卒業時の1968年春には約300人になっていた。勿論これは公表されていた訳ではなく、組織内でも班キャップと総班委員しか知らなかった。組織外の学生は誰も知らないことになっていた。ところがそれは建て前で、実は雑誌『全貌』が、「恐るべき民青」などといって、かなり正確な数字を流していた。出版社は社員数わずか数名の全貌社で、社長は水島毅という人だった。かれは岡山・津山出身だった。右翼の雑誌には違いないけれど、デマや右翼的主張のあれこれを垂れ流すことは少なく、もっぱら左翼情報を、しかも小出版社が到底掴み得ない情報を掲載していた。これは公安情報の横流しと見て間違いなかった。

<引用終わり>

*1 朝永振一郎(1906/3/31-1979/7/8) 日本の物理学者。日本の物理学者。超多時間論を基に繰り込み理論の手法を発明、量子電磁力学の発展に寄与した功績によってノーベル物理学賞を受賞
*2 古林喜楽(1902/5/26-1977/1/11) 経営学者。経営労務論研究のパイオニア。
*3 潮見俊隆(1922/5/10-1996/10/19) 法学者。専門は民法及び法社会学。1977年に刊行した「治安維持法」において同僚の著書からの盗用が発覚し東大教授を辞任。
*4 野村平爾(1902/6/1-1979/1/22) 労働法学者。戦後の労働運動を理論的に支えた。
*5 木村礎(1924/1/26-2004/11/27)  歴史学者、明治大学名誉教授。専門は地方史・村落史。
*6 日本歴史学協会 1950年に設立された日本の歴史学に関係した学会及び個人研究者を会員として組織された連合組織。
*7 井上清(1913/12/19-2001/11/23)  歴史学者。専門は日本史。明治維新や軍国主義、尖閣諸島、元号、部落問題に関する著作がある。1972年に様々な学術雑誌に「釣魚諸島(尖閣列島など)は中国領」との論文を発表。中華人民共和国における文化大革命や全学共闘会議の活動を支持、晩年はピースボート活動に積極的に参加。部落解放同盟、日本共産党との関係は良かったり悪かったり。
*8 林要(1894/5/3-1991/12/26) マルクス経済学者。1920年東京帝国大学法学部卒、1923年同志社大学教授。東大新人会で活動以来のマルクス主義者。1936年大学をおわれ、38年には執筆も禁止。戦後は愛知大学教授、関東学院大学教授、1979年退職。
*9 日本共産党党大会
*10 民主主義科学者協会(民科):日本の進歩的な自然科学者・社会科学者・人文学者の左派系協会、1946年1月12日創立。指導部は実質的に日本共産党の影響下にあったが、発足当時は共産党の政治的指導はゆるやかであったらしい。1950年代に入ると日本共産党(所感派)の手で、民科内部に政治的課題が持ち込まれたという。1957年に本部事務所閉鎖。ただし法律部門は現存し、日本学術会議に強い影響力を及ぼしているようである。
*11 日本科学者会議 民主主義科学者協会の各部会が1950年代にほとんど崩壊または独立した学会に転じてから、科学者の全国組織を望む声が高まり、設立されたらしい。
*12 第二回北京シンポジウム ネット検索してみたところ、1968年10月に実施されたようである。ちなみに、第一回の北京シンポジウムには名古屋大の坂田昌一教授が出席し、「科学の世界に吹きはじめた新しい風は、かならずや古い風を圧倒するであろう」と述べ大喝采を浴びたそうだ*a)。
*a) 消えた核科学者-日本原子力研究所の場合-
*13 日本学術会議 選出方法とその変遷
*14 摘録 雑誌全貌昭和50年2月号「特報“学者の国会”日本学術会議の内幕」

by ferreira_c | 2020-10-23 06:15 | 摘録 | Comments(0)
<< 福島要一氏著作の中古価格大暴騰 摘録 雑誌全貌昭和50年2月号... >>


blogに名を借りたほぼ月記。軍学者兵頭二十八に私淑するエンジニア。さる業界所属ゆえにフェレイラと名乗る。

by ferreira_c
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧