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オレは右翼なのかい? 左翼なのかい? どっちでもないっ(茅誠司の心の叫び)~島村原子力政策研究会資料摘録2~

 オーラルヒストリーから物事を読み取っていくのは本当に大変だと実感。特に高齢の方々が講師となっていた島村原子力政策研究会だと、話題も行きつ戻りつになっていることが多い。その中でも島村はうまく話を引き出しつつも、脱線したら論点をさりげなく元に戻す等の点で会議を仕切るお手本となっている。
 今回は、中曽根元首相の「札束で(学者の)ほっぺたをひっぱたく」発言が伝説となっている原子力修正予算(2億3千5百万円)提案の頃における茅誠司を巡るゴタゴタを記しておく。単に茅の国内的な政治姿勢評価の揺れだけでなく、当時のアメリカのインテリジェンス部門が日本の有名な学者の発言などに対してセンシティブになっていたことも併せて記す。
 まず茅のその時代の略歴は以下のとおりである。

 1943年12月 東京帝国大学教授着任
 1948年 文部省科学教育局長を務め、日本学術会議設立に尽力
 1949年 日本学術会議第4部会(理学)部長就任
 1951年1月 日本学術会議副会長(自然科学部門長)就任
 1951年9月 サンフランシスコ平和条約(講和条約)締結
 1952年4月 講和条約発効(核分裂研究が可能となる)
 1954年1月 日本学術会議会長就任(~1958年4月)
 1954年 日本アイソトープ協会会長就任
 1957年12月 第17代東京大学総長就任(~1963年)

 話はノーベル賞を受賞した湯川秀樹から始める。まさにそこから日本の原子力研究に関して学術会議が動き出す*1。
(引用開始)
島村:湯川記念館の開館式(1952年7月)で、茅先生が日本としても原子力問題をどう考えるかが先決だということを話しておられる。
伏見:そうです。
島村:その5日後に学術会議で、伏見先生に草案の作成を頼むことにしようじゃないか、そして10月になって茅・伏見提案[講和条約が発効したので、学術会議に原子力問題の取り上げ方を検討する委員会を設け、政府にも原子力委員会設置の検討を要請]がなされたと、こういうことになっているんですが。大体それには間違いはないですか。
伏見:そうです、時間的には。ただ、運営審議会の頃までは、狭い学術会議の会員の議論の中では、非常に皆さん楽観的で、なんとなくうまくいくような気配であったわけです。ところが、8月に若い連中が騒ぎ出したものですから、皆駄目になっちゃった。第4部の殆どの方が皆とにかく前向きであったというのに、イザ総会が近づいたら皆脱落してしまって、残ったのが伏見、茅二人になってしまった。始めから茅・伏見提案というのではなかったんです。始めは第4部提案の筈だったんです。
(引用終わり)
 この周囲の空気の変化を茅自身は以下のように述べている*2。
(引用開始)
茅:それは、1952年に講和条約が結ばれた。この条約でもって核分裂の研究をしてもいいってことになって、原子力の研究が大きな問題になる。
~中略~
それで、私が原子力の提案[講和条約が発効したので、学術会議に原子力問題のとりあげ方を検討する委員会を設け、政府にも原子力委員会設置の検討を要請]をすることとなった。それに対しては、自然科学部門は全部私の提案に賛成であるという噂だった。ところが、段々一減り二減って、とうとう私がもと部長の第四部でも賛成しない。結局やってみると、残ったのは今参議院議員をしている伏見くん一人ということになった。それで、なぜそうなったかってことはよくわかんないんですけど。お前は原子爆弾をつくるそうだねっていう質問をよく受けるんで、そんなばかなこと言ったことないけど、だいたいどこで聞いたんだ。あなたのとこの、東大の物理の若い連中がそういう噂してると。僕のとこで言ってるんじゃ、責めるわけにもいかんねってわけで。それでも、あんまり気にしないでいたんですけど、結局伏見君一人が一緒になってやるということになった。
(引用終わり)
 ここに至って、茅は1952年8月辺りに若い物理学者を中心に右翼認定されていたようだ*3。それだけでなく、学術会議第四部の中でも非民主的な男とまで言われていたらしい*4。
(引用開始)
石川:学術会議の中で、原子力の文献集めをしようという動きで、その当時の若い物理学者どもが反対したのは、理由は何なんですか。
茅:いや、僕の人柄によるんです。(笑い)まあ、僕って男はもうしょうがない男だっていう、そういう考え方があった。
杉本:先生、それは失礼ですけれども、右翼だという風な意味なんですか。
茅:右翼ととられたんだ。だけど右翼をやったことはない。僕は、国会に行くと、湯川さんご一緒だったんですが、なんか左翼と間違えられたこともあるんです。だから右翼とばかし間違えられたんじゃなくて、左翼と間違えられたことも。(笑い)
(引用終わり)
(引用開始)
茅:それは、やってるうちに、これも秘密なことですけど、例えば名古屋の有名な教授、坂田昌一なんか、茅さんは非民主的な男だから嫌になっちゃった、だから一緒にやらなかったと、こういう。(笑い)そうか、俺は非民主的と言われてることあるんだなと思ったけど、それだけです。どうして皆がそういう風に思うようになったかってことは、僕は知らないんです。なにしろ、こういうのは噂が立つと酷いことになって、それで、今賛成なんかやってる人なんかでも、駒形作次さんなんかも賛成なんて顔は絶対しなかったです。言えば、あいつ怪しからん奴だって思われるに違いない。
(引用終わり)
 しかも、茅・伏見個人提案が1952年10月24日の学術会議総会に提出されたときには、有名な広島大学の三村教授の反対演説の後に以下のような発言すらあったらしい*4。
(引用開始)
茅:彼(三村)の提案は、「アメリカとソ連の仲が平和になった時に初めて、わが国では原子力の研究はするべきである、それより前にするべきではない」という結論だったんです。それを聞いて、それより前かも知れない。最初に大阪大学の部長、有名な外科の先生が質問に立ったんです。茅と言う右翼の男と、伏見と言う左翼の男と一緒になっての提案に賛成するのか。(笑い)そしたら、伏見が座席からひょっと立ちあがって、「私は研究をしたいからです」、それで座っちゃった。さすがの学術会議が、学術会議ってのは研究者の集まりだから、研究したいからですって言ったら、一座がシーンとしたです。
(引用終わり)
 結局、茅・伏見提案は多数の反対によって取り下げられたのだが、人文社会法律系副会長我妻栄の「こういうことを研究することこそ学術会議の使命ではないか、どう扱うか委員会を作るべき」という意見によって委員会が設置された。茅はそのときに聞いた噂を述べているので記しておく*5。ただ、1952年末に出された委員会検討結果は芳しくなく、茅は失望することとなる。そうこうしているうちに、1954年3月の国会において有名な中曽根康弘の原子力予算提案となった*6。
(引用開始)
茅:我妻さんが、僕のあれが否決された後、こういう重要な問題は学術会議がいかなる案をとるべきかという、それをやらなきゃ困ると。これは全員一致でダーッと通っちゃった。そしたら、その頃赤かった連中は歯軋りして、ああ遅かったと言ったという噂がある。噂ですよ。
(引用終わり)
(引用開始)
茅:第39委員会、後に原子力問題委員会と呼んだ。~中略~その人(務台理作、第1部副部長、もと東京文理科大学学長)が委員長になって、そうしていろいろと研究した。その年の終わりに結論が出たんです。学術会議の総会で、結論が出た委員会は報告するということになって。どういう結論が出たか、私達も非常に期待していたところが、まだ文献を多量に集めるには早すぎる[大塚益比古資料:原子力研究についての大規模な調査機関を設けることは、学術体制の整っていない現在、これを作るのは適当でない。]という結論だったんです。それで僕はがっかりしちゃったんです。その後、学術会議の改選(1954年1月)で、次の任期の人を選ばなくちゃいけない。改選後の新しい委員会を検討していた。その時に、有名な中曽根康弘の、―54年3月に、改進党のキャスティング・ヴォウトで予算修正案があって、原子力の研究予算ってのを、僕は忘れちゃったけど3億いくらかな。3億5千万位じゃないですかな。
島村:いや、2億5千万(原子炉築造費2億35百万円、ウラン探査15百万円)です。
(引用終わり)
 その後、1954年1月に日本学術会議会長に就任したことがきっかけで、1955年5月にソ連、中華人民共和国を訪問した学術視察団の団長になったことや*7、1955年11月に世界平和アピール七人委員会*8のメンバーになったことで左翼認定されたようだ*7。
(引用開始)
茅:僕はソ連の学士院会員なんです。それは赤いからじゃなくて、日本の学術会議の会員を連れて、呼ばれてソ連へ行って、ソ連を三週間回った。その結果として私は学士院会員になって、いまだになってます。そうすると、あの男はソ連の学士院会員だっていうと、決してよくは取らない。
石川:それはもうアカの証拠十分じゃないですか。(笑い)
(引用終わり)
(引用開始)
茅:こんなこと、あなた達だから言うけど、ある人が、私は本人と非常に親しいんです、その人が、茅さんいい人だけど、共産党となんか関係してるのが惜しいって言ったって事があるんです、そういう噂が。僕はそれを、ちらっと聞いて、ははあそうかなと。つまり、僕が原子力の平和利用のために、七人委員会(1955年11月11日発足「世界平和アピール七人委員会」、88年11月9日死去までメンバー)をつくっているでしょう。あれが、赤いと見られてる。
(引用終わり)
 時代は少し下り、新日米安保条約批准を記念してアイゼンハワー米大統領の訪日が計画された。1960年6月19日にアイゼンハワーと昭和天皇香淳皇后両陛下を乗せたオープンカーが羽田から皇居まで18.7kmをパレードする予定だったが、60年安保の騒擾状態を危惧した政府、自民党は橋本登美三郎がアイク歓迎実行委員長となり、岸首相が旧知の児玉誉士夫を通じて任侠(右翼)団体へパレード警備を依頼したらしい*9。この歓迎実行委員会かどうかははっきりしないが、茅は東大総長という立場から何らかの歓迎委員を担ったようだ。すると学内からの非難が強く、慶應義塾大学の小泉信三からは「皇室を政治の道具に使うな」と言われたらしい。しかしそもそも(パレードが?)皇室の提案だったようだ。
 後日、アイク訪日が中止になってホッとした茅であったが、思わぬ事態に巻き込まれている。今で言えば報道被害の一種だろう。何はともあれ、この一件でアメリカ大使館とは絶縁状態となった*10。大学、マスコミからは右翼、アメリカ大使館からは左翼と認定されたも同じだったろう。
(引用開始)
茅:一等はっきり言えば、1960年にアイゼンハワー大統領が日本に来るって言うときに、一番心配したのは私なんです。つまり、あの時に学生が大変な騒動やってる。あの時に、アイクの列へ向かって、乱暴した連中がなんかしようとしたら、どんなことになるかわからない。それで、非常に心配したんです。しかし、アイクの来る以上は、歓迎委員会をつくろうと、歓迎委員になったんです。そしたら東大で非常に非難された。けれども、東大の学長が歓迎委員にならんっていうのも尚おかしいんで、なった。非難が非常に強かった。そしたらうまいこと、アイゼンハワーが来なくなった。あれはあの、慶応の顔をやけどした人、慶応で非常に評判が良かった人があったでしょう、小泉信三さん。小泉さんが生徒に言って、皇室を政治の道具に使ってはならんと言ったわけです。あれ皇室の「提案」なんです。それで、来られたらいけないっていうんで、止めたんです。それで、僕はそれを聞いてよかったなあと思っている時に、アメリカのいろんな新聞に英文が出たんですが、I am very gladと出たんです。そしたら、アメリカ大使館の僕がよく知ってる男がやってきて、これはお前本当かっていうから、いやvery gladじゃない、I am relieved、救われたって意味でいったって言ったら、なんで直さないんですかって。日本じゃ、直すのはなかなか大変だって言ったら。
石川:(笑い)
茅:以後は、アメリカ大使館と関係するのは全部やめてほしいと。アメリカ大使館の推薦で、米国へ原子力の研修に行った人がいたんだ。ああいうのは、全部私の推薦した――それをぜんぶ辞めろというから、止めろというならいいですよ。それで辞めたら、それから今日まで、それはコンピュータの記録にある。黒板でないと消せないんだ。コンピュータに入ってるから、消えないでいまだに出てる。
(引用終わり)
 悪いことは続くもので、1960年12月2日の琉球大学創立10周年記念式典に出席した際のスピーチも大いにアメリカ大使館を刺激したらしい*10
(引用開始)
茅:そういうのを今一回食っている。それは、沖縄の、琉球大学が10周年記念の式をやる、その時に東大学長として来てくれって行ったんです。そうしたら、式台のそばにフェニックスが二鉢植わってるんです。だからこのフェニックスは、焼けただれた土地から「真の人間」っていうのが生まれることを希望して置かれたものだと言ったら、とんでもない話だ。そんなことがアメリカにとって大変な発言なんです。それ以来アメリカ大使館は、私とは何も関係ない。
(引用終わり)
 結果的に、アメリカのインテリジェンス部門に要注意人物と認定されたようで、いろいろと面倒くさいことが起こってしまう。しかも長く訂正されなかったようだ。
(引用開始)
<文中より1977~1978年と推定>
茅:今から7~8年前ですが、沖縄の関係で南米に行ったことがある。南米の帰りにロサンジェルスで、その次の飛行機を待つために降りたら、お前だけはこの部屋にいて、他に行っちゃいけないって言う。僕だけ閉じ込められたことがある。これはワンスエントリーです。その前にも、ワンスエントリーで、お前は外に出ちゃいけないよってアメリカで2回ほどくってる。そうしたら、ある日本の通訳がそのことを開いて、茅さんをそういうことにあわすのはおかしいじゃないかって言ったら、その時だけちょっと直ったことあったけど。 未だにワンスエントリー
石川:活字というのは怖いです。
(引用終わり)
(引用開始)
<時期不明>
茅:たとえば、女房と子供達連れてナイヤガラフォールに行った。それで、方々見て回った 後で、向こうのカナダ側に向かって、橋を渡ろうとしたら、お前はワンスエントリーだから行っちゃいけないって。あれはびっくりした。他の連中はいい。皆行っちゃった。僕はこっちにいて待ってた。まあちょっと首出してもいいよって言って。(笑い)とうとう二時間ほど座って待ってた。
(引用終わり)
 しかし、アメリカから注意深くモニターされていたのは茅だけではなかった。理研で寺田寅彦の薫陶を受け、その後北海道大学に着任した中谷宇吉郎も共産党との繋がりを誤解されてなかなかアメリカに行けなかったらしい*10。また、日本政府は日本原子力研究所の幹部人事に対しては殊の外慎重であったようだ*11。これは日米両政府とも、赤狩りからオッペンハイマーの公職追放(1954年4月)という時期にあたり、仕方の無い反応であったのかもしれない。
 ただ、当事者となってしまった茅にとって甚だ迷惑な話であったろう。なお、原研幹部の人選には注意したが、一般の研究者までには手が回らず、結果的に赤い原研と呼ばれるようになってしまった。
(引用開始)
茅:中谷宇吉郎北海道大学教授が、外国に行こうという時に、アメリカに呼ばれた時に、なかなか許可がおりなくって。ケリーさんにどうしたらいいかって言ったら、僕がちょうど 文部省科学教育局長だったから、お前が、中谷君は非常によくやってると証明すりゃいいって。それで、何回か書類を往復して許されて行ったんです。非常に評判がよかった。 それからよく聞いてみたら、アメリカの反対の理由は、中谷は共産党から研究費をもらってたんだということになってる。そのことを都留重人にしゃべったんです。「ああわかった」っていうんだ。「あの時僕(都留)が経済企画庁にいて、僕が研究費をやったといわれている。僕がやったことが、共産党がやったと同じに取られた」。中谷君は、北海道の農業生産を増やすため雪を早く溶かそうと、雪の上に早く土を撤いて、それで熱を吸収して雪を溶かすそういう研究を始めたんです。そしたら、経済企画庁が研究費を出した。それが、共産党からもらったってことになっている。
石川:はああ。そういうことに変わってるんですか。
茅:怖いですよ。
島村:いっぺん載っちゃったらもう消せられない。
茅:消せられない。そこがいいところか悪いところかわからないんだけど、一度つけられた ら消せない。
島村:しかも、全く向こうの誤解なのに。
(引用終わり)
(引用開始)
石川:茅先生は、満86歳かな。さっき言った米寿は数え年で88歳です。
杉本:いや、茅先生、あのお年で記憶力がはっきりしている。日本原子力研究所初代理事長の安川第五郎さんなんかは、80を超えると晩年ははっきりしなかった。
藤波:茅先生がアメリカと絶縁状態にあったということは始めて聞いた。
石川:アメリカのCIAの情報は怖いです。
藤波:怖いのと、アメリカもかたくなな――。時代がずいぶん経ってもレヴイユーしないのかな、再検討委員会などで。
石川:下手に新聞記者が間違ったことを書くと、パーっと広がって、訂正ということはないから。茅さんは、その辺は、マスコミの批判を込めているのかな。
杉本:しかし原子力が始まったあの頃は、世の中が不安定だったから、一寸なんかやると赤だといわれたもんです。
藤波:理研の山崎文男さんを原研の理事にするとき(1969年2月)に、僕は苦労した。総理府で問題になって待たされたことがある。調べたら、交際する仲間の中にこっちがいると。
杉本:私が始めてアメリカに行く時に、原研理事長の菊地先生が、君、良くアメリカのヴィザが出たねと言われて。いや、僕なんかに出るのは当たり前ですよと言って。
藤波:山崎さんは、その後でいいことになって発令できた。最近の何処何処の講演会やゼミナールの質疑応答で受けて立って、シッカリしたことを言って、反対派に対して毅然としてやったということで。良く調べている。
杉本:1956年に原研ができた時、下馬評では山崎先生が理事になると言われていたのが、実際は杉本朝雄理事になったのも、そういうことがあったんですか。
藤波:その頃はタッチしていないので、知らない。雑誌記事だとか投稿したのをよく調べている。誰がこういったとか、マスメディアの影響は大きい。石川さん、あなた方の一筆一行は大事ですよ。誰がこういったと言うのは。
杉本:茅先生みたいな方が、アメリカとそうなっていると言うのは、今日始めて聞いたね。
(引用終わり)

*1 島村原子力政策研究会資料、文部科学省研究開発局原子力計画室、2008年6月、p.14
“学術会議と三原則”、開催日:1985年7月11日、講師:伏見康治(大阪大学教授、名誉教授、名古屋大学教授、名誉教授、日本学術会議会長、参議院議員)、出席者:島村武久、藤波恒雄、田中好雄、別府正夫
*2 *1のp.25
 “学術会議と原子力事始め”、開催日:1985年11月29日、講師:茅誠司(北海道大学教授、東京大学教授、日本学術会議会長、東京大学学長)、出席者:島村武久、藤波恒雄、田中好雄、別府正夫、杉本栄三、堀佳辰、石川欽也、林弘
*3 *2のp.36
*4 *2のp.30
*5 *2のp.33
*6 *2のp.27
*7 *2のp.37
*8 委員会は1956年4月3日にアイゼンハワー米大統領宛に水爆実験中止を訴えるアピール。第一回のアピールの口調が今の目から見ると多少左翼っぽい論法。他にも米原潜寄港に抗議アピールを数度実施。
*9 アイク歓迎実行委員会
*10 *2のp.38
*11 *2のp.44










by ferreira_c | 2021-10-08 22:16 | 原子力 | Comments(0)
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blogに名を借りたほぼ月記。軍学者兵頭二十八に私淑するエンジニア。さる業界所属ゆえにフェレイラと名乗る。

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