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消えた核科学者 -日本原子力研究所の場合-

 先日、普段は訪問者もまばらで閑古鳥の鳴いている拙Blogに随分とアクセスがあった。検索ワードを調べて見ると、「動燃 消えた科学者」とある。どうやら日刊ゲンダイで始まった連載に呼応していたようだ*1。そうであるならば、日本原子力研究所(原研)における研究者の失踪事件について述べておくこととする。ただし、原研のケースでは向かった先は中華人民共和国(中共)という噂になっていた*2。


<以下引用>
p.959「嘘ではない、中共・東海村原子力研究所」
 昭和三十六(1961)年正月のこと。東海原研の第一号研究炉に勤務していた塚本という研究員が、正月休みで独身寮から帰省の途中、まったく忽然と消えてしまった。新聞紙面をも大分賑わせ、当局も手をつくして捜索したがまったく足取りすら掴めなかった。その塚本研究員が、どうも中共に生存して働いているらしいという噂が、それとなく原研内部で、はなしとしてではあるが流れているのである。
<引用終わり>

 失踪事件が起きて約3年弱、思わぬところから失踪事件を想い起させる出来事が起きた。しかも発端はイギリス議会であった*2,3。しかしながら、当時は原子力の日の由来である動力試験炉(JPDR)による発電(1963年10月26日)から3日後のGE申し出による運転停止に始まる様々な調整をしていた期間(11月20日再開)であったことも手伝い*4,5、僅かに主要新聞がお義理に夕刊二面で報じた程度であったという。

<以下抜粋引用>
p.954「中共の原爆は日本人が作っている」
 ロンドン(1963年11月)18日発ロイター電、英国下院での日英原子力協定に関連した質疑。
多数の日本人原子科学者が中共で協力し、働いているという情報がある。英国の原子力の情報が日本人科学者を通じて中共に流れ、核拡散に利用されないように同協定に規定してもらいたい」
 英労働党ウッドバーン下院議員*6の政府保証の要求に対し、トーマス外交担当相*7は、
「この件について問合わせている。この問題について全く関知していないが、調査する」
と答弁。
<引用終わり>

 一方、外電については関係官庁の対応は"キツネにつままれた"ようであったらしい*2。

<以下抜粋引用>
p.954「中共の原爆は日本人が作っている」
科学技術庁「日英原子力協定は平和利用のための情報交換に限定。中共の核開発に協力とは日本の原子力研究も買いかぶられたもの」と首をひねる。
外務省「英国からの問い合わせも受けず。日本の原子科学者の中にはたまに中共に招待される人もあろうが、ココムと違って人間の禁輸は難しい」と取合おうとせず。
<引用終わり>

 ちなみに行方不明になった塚本修(昭和七(1932)年生)研究員は若手の研究員として実力は高く評価されていたらしい*3。ただし、原研の大卒公募第一期生の一人で、後の原子力安全委員会委員長となった佐藤一男(委員長在位:1998年4月21日 - 2000年4月6日)はインタビューで塚本氏のことを次のように述べている*8。果たして、実際の塚本氏の運命はどのようなものだったのだろうか?

<以下引用>
中村 オペレーターだったかな? どなたか一人行方不明になり、中国へ行って原爆造りを指導してるんじゃないかなんてウワサが流れ、大ニュースになりましたね。
佐藤 そうでした。私は彼と一緒に仕事したことがありまして。でも、私より後の入所の人だから経験も浅く、いくら何でも原爆製造の指導だなんて考えられませんよ(笑い)。しかし、確かに一時話題になりました。
<引用終わり>

 全貌はそもそもこのような日本人が中共の原爆製造に加担している疑義が英国から出されたことに関して、数年来の日本の科学者の行動によるものではないかと推測する。最後に失踪事件の前後に日本と中共の交流、特に科学的な部分にスポットを当ててみることでこの項を終わりとする*3,9。

<以下抜粋引用>
昭和30(1955)年
3月 原子力海外調査団帰国。一行中の伏見康治教授は民科*10のメンバーだったため、イギリスで入国拒否される。
5月 学術会議視察団一行、中共訪問。
11月 民科京都支部物理部会で藤本陽一教授*11が中共への研究協力問題を提案-「日本では物理学者の研究難が深刻だが、中国では建設のために多数の科学技術者を必要としている。そこでひとつ中国へ就職することを考えてはどうか。幸い近く『訪日中国学術視察団』が来日して京都でも懇談会が開かれるから、そのさいこの話をもち出してみては・・・」と発言*12。これを契機に科学の国際交流を通じて日中国交回復に寄与するという名分がうち出された。
昭和31(1956)年
5月 坂田昌一教授*13が中国科学院から招待で中共訪問。
昭和32(1957)年
5月 物理学会全体として「訪中使節団」(朝永振一郎団長、二〇名)を送り出すまでに発展。北京で周恩来、郭沫若と懇談。「日中物理学会の交流促進に関する覚書」を交換し、各地研究所を訪問し、講演、講義を行った。
昭和33(1958)年
5月 長崎国旗事件以降*14、日中交流は中絶、科学交流による就職問題も立ち消え。しかし1960年6月のソ連からの技術援助停止にともない自力建設を進めるため対日政策を緩和したためヨリが戻ろうとする傾向があり。
昭和38(1963)年
10月 東大原子力工学の渡辺茂教授を含む「日本高分子代表団」が訪中、北京で昭和39(1964)年に原子力発電関係の科学者の訪中を中国科学院と協議。
11月 中共学術代表理科学院半導体研究所長の王守武は、電気試験所田無分室、東大原子核研究所、東大電子工学科、物理研究所、日本原子力研究所を訪問。全施設を視察。この際、来日目的について「中国は原子力研究の分野で非常におくれているので日本から学ぶため」と語る。一行の来日に対しては、歓迎実行委員会が中心となり、日本学術会議も組織をあげて便宜をはかり、京大では懇談会を開き日中人民の共同斗争の必要性、日本の革命運動の支援などと受け取れる挨拶が行われた。
昭和39(1964)年
8月
 世界科学者連盟(共産系)の中の中共派科学者だけで44カ国367名が集った北京シンポジウムに坂田団長を始め61名参加。大会最終日に坂田教授は陳毅副総理、郭沫若科学院長らを前に「科学の世界に吹きはじめた新しい風は、かならずや古い風を圧倒するであろう」と述べはげしい拍手をあびた*15。中共要人は踊りあがって喜び、以後このくだりはしばしば引用される名句となった。中ソ対立深刻化のおり、おそらく中共の科学がソ連をやがて圧倒する、「日本の科学者がソ連にとって代って中共に協力する」という意味で使用されたものであろう。
日本人科学代表団にたいして、中共側は毛沢東主席、劉少奇国家主席、鄧小平総書記ら、病気静養中の周恩来総理をのぞいた首脳陣が総出で歓待にこれつとめたと言われる。
<引用終わり>

【補足1】塚本研究員が著者の一人となっている論文と、失踪当時の記事が見つかったので下記に示す*16,17。新潮の記事は目次、見出しのみだが時間があれば取り寄せてみることとする。
【補足2】科学技術分野における日本と中共の連携を示すページを示す*18。

*1 消えた核科学者 警視庁拉致関係リストの真実“動燃プルトニウム製造係長は72年に独身寮から突如失踪した”、日刊ゲンダイDIGITAL
[url] https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/271474

*2 全貌、全貌社、昭和39年1月号、954-959ページ、"原子炉の火を消した共産党細胞-東海村は中共の原子力開発のテスト機関なのか?・・・(ロイター電要旨)-"、1964年
*3 全貌、全貌社、昭和39年11月号、22-30ページ、"安保騒動の再現を狙う 原潜寄港反対運動の演出者たち"、1964年
*4 あの日、あの時 科学技術庁40年の歩み、電力新報社、93ページ、"ある原子炉の一生-JPDRの建設から解体まで-"、石川迪夫、1996年
*5 何故、原子力の研究機関は統廃合されたか? (番外編)原子力の日に想う
[url] https://ferreira.exblog.jp/21365673/

*6 Arthur Woodburnというスコットランド出身の議員を指すと思われる。
[url] https://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_Woodburn

*7 Peter Thomasというヒューム内閣(1963/10-1964/10)の外交担当相(Minister of State for Foreign Affairs)を指すと思われる。
[url] https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Thomas,_Baron_Thomas_of_Gwydir

*8 あの日、あの時 科学技術庁40年の歩み、電力新報社、80ページ、"日本初の「原子の火」がともった頃"、佐藤一男、1996年
*9 当時は中共とは国交は無かったが、1952年の朝鮮戦争終結後に日中貿易協定が結ばれ徐々に日中貿易は伸びていった。しかし、1972年の日中共同声明までは日本国が正式な外交関係を有する中国と言えば中華民国(台湾)であった。
*10 民主主義科学者協会(民科):日本の進歩的な自然科学者・社会科学者・人文学者の左派系協会、1946年1月12日創立。指導部は実質的に日本共産党の影響下にあったが、発足当時は共産党の政治的指導はゆるやかであったらしい。1950年代に入ると日本共産党(所感派)の手で、民科内部に政治的課題が持ち込まれたという。1957年に本部事務所閉鎖。ちなみにミチューリン農法を支持していたらしい・・・orz。
[url] https://ja.wikipedia.org/wiki/民主主義科学者協会

*11 藤本陽一、物理学者。大正14(1925)年生まれ。昭和31(1956)年東大原子核研究所教授となる。38(1963)年早大教授、同大理工学研究所長。
*12 広重徹、“戦後日本の科学運動”、中央公論、191ページ、1960年
*13 坂田昌一(Wikipedia)、いわゆる赤色物理学者。また別で述べたい。
[url] https://ja.wikipedia.org/wiki/坂田昌一

*14 長崎国旗事件(Wikipedia)
[url] https://ja.wikipedia.org/wiki/長崎国旗事件

*15 全貌、全貌社、昭和40年5月号、30-34ページ、"名古屋大学は赤い大学-かくされた日共の大細胞-"、1965年
*16 日本原子力研究所JRR-1管理課他、日本原子力学会誌3(1)、ページ40-54、 1961、"燃料溶液を中心としたJRR-1の総合試験, (I) 全般的考察"、1961年
[URL] https://doi.org/10.3327/jaesj.3.40
*17 週刊新潮、9(46)(456)、1964年11月
"東海村の失踪人塚本修--原研所員中共潜入説の攻防"、ページ122-127
[URL] https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3377326
*18 日中科学技術交流協会 設立の趣旨と沿革
[URL] http://jcst.in.coocan.jp/page02.htm

# by ferreira_c | 2020-04-15 21:14 | 原子力 | Comments(0)

思えば長い道のりだった~ついに1Fトリチウム問題解決か?~

 ようやくALPSでも除去できないトリチウム含有水の処理が開始されそうだ。すでに3/12現在でタンク基数 979基、タンク貯蔵水量 約119万m3、トリチウム平均濃度 約73万Bq/L、トリチウム総量 約860兆Bq[トリチウム水換算 約16g]が1Fのサイトに溜まっている*1。何はともあれ処理に向けて動き出したのは良いことだ。
 このblogでALPSでも除去できないトリチウム含有水は希釈するしかないと記載して早6年半*2。その後トリチウム水タスクフォースが立ち上がり、2年半かけて様々な処理技術が評価された*3。そこで革新的なトリチウム処理あるいは回収方法が提案されたわけではなく*4、結局は希釈処理か蒸発処理という素案が東電から出て来た*1。しかもトリチウム水タスクフォースの最終報告書から約4年かかっている。
 そもそも2013年9月2日の田中俊一原子力規制委員会委員長の日本外国特派員協会の講演において、田中氏自身が汚染水問題の対応は「放射能濃度を許容範囲以下に薄めた水を海に放出する必要性」を強調していた。その後も折々に希釈海洋放出に言及していたようだが、2017年7月に東電の川村会長が「大変助かる、委員長と同じ意見だ」とコメントしたところ田中氏は「東電は地元と向き合う姿勢がない」と強く批判し暗礁に乗り上げてしまった*5。
 その後はいつまでも処理されないままかと思っていたら、原田前環境大臣が退任前に意を決したように「トリチウムは海洋放出しかない」と発言した。これで山が動くと思った矢先、小泉環境大臣が就任直後の2019年9月12日に福島を訪問し、前環境相の発言を詫びた*6。とは言ってもいよいよ猶予が無くなったのであろう。東電がようやく処理の素案を提出した。ちょっと検索したが東電のこの素案については小泉大臣はどのようなコメントを残したのだろうか? まだ素案だからコメントしていないのか? 非常に気になるところである。

*1 多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会 報告書を受けた当社の検討素案について、東京電力、2020/3/24
[url] http://www.tepco.co.jp/decommission/progress/watertreatment/images/200324.pdf
*2 核融合の専門家はトリチウム汚染水について発言したのか?、2013/9/16
[url] https://ferreira.exblog.jp/21048106/

*3 トリチウム水タスクフォース情報(第一回2013/12/15-第十五回2016/5/27)
[url] https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/osensuitaisaku/archive/task_force3.html

*4 トリチウム水タスクフォース報告書、2016/6
[url] https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/osensuitaisaku/committtee/tritium_tusk/pdf/160603_01.pdf
*5【再掲】トリチウムの海洋放出に残された時間は少ない、池田信夫、2018/2/7(2019/9/13再掲載)
[url] http://agora-web.jp/archives/2030959.html


*6 まずはめでたい大臣就任、2019/9/13
[url] https://ferreira.exblog.jp/29637504/




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# by ferreira_c | 2020-04-01 00:49 | 原子力 | Comments(0)

国労、動労、鉄労、マル生運動、遵法闘争、スト権スト・・・国鉄は遠くになりにけり

 先日、中曽根“大勲位”康弘が逝去された。大勲位の功績として国鉄民営化が挙げられていた。私は国鉄があまり関係の無い地域であったので、正直どうであったかはほぼ記憶にない。しかし、標題のキーワードを検索するだけでも、どれほど民営化が大変だったかをうかがい知ることができる。いつの頃か忘れたが、国鉄の組合について書かれた山本夏彦のコラムを引用していたブログがあったので一部保存した。これを機会に棚卸してみる。
 国鉄の主要労働組合は昭和50(1975)年の11月26日から12月3日までの統一ストライキ(スト権スト*1)に参加した。スト権ストと言っても、今となってはよく分からないが、ストライキを実施する権利を獲得するための大規模な違法ストということらしい。国鉄の列車はほぼ全てストップしたが、国鉄労使が想像したより国民生活への影響は少なく、国鉄の地位低下を象徴した。それまでにも頻発していたストライキに業を煮やした民間会社はいつの間にか輸送手段をトラックに変更していたのである。以下はスト権ストの時期に書かれたと思われる山本夏彦のコラムから引用である*2。

<引用開始>

 彼ら(国労*3、動労*4)は一人では弱虫のくせに、衆をたのむと何をしでかすかわからない。それというのも、客に制裁の手段が全くないからで、何によらず一方に制裁の手段が全くないと、一方は増長してとどまるところを知らなくなる。

 客は制裁すべきで及ばずながら自分はしていると、日頃わが家に遊びに来た無名の一芸人は慨然として語った。
   ~中略~
 私鉄がストして国鉄がストしない日は、私鉄の客が国鉄に押しよせて国鉄は混雑する。私はそういう日にかぎって、定期も切符も見せないで改札口を通る。改札口の駅員は「オイ」と私を呼びとめる。
「オイとは何だ」と、私はすこしすごみをきかして、やくざ風に低声で言う。ふりむいて、ひたと駅員の目を見る。駅員はかならずひるむ。
 彼らは客を普通「オイ」と呼ぶ。「ちょっと」と呼ぶものはすでに稀で、「お客さん」と呼ぶものはさらに稀である。
「テーキ、テーキ」「キップ、キップ」と連呼するものが最も多い。定期ならポケットにしまってあるから、
「持ってる」とうそぶく
「見せてくれ」
「見せない。あしたは順法と称する違法ストだろ。おまえさんが違法するなら、あたしも違法する」
「それではここを通さない」
「もう通ってる」
「出てくれ。規則だ」
「あーそうかい。規則をたてにとる気かい。そんならあしたの違法ストはやらないね」
「そんなこと、知るものか」
「おまえさん、国労かい動労かい鉄労*5かい。国鉄には七つも組合があるんだってね。会社一つに組合七つとは、神武以来の珍事だな。ときにその七つは仲よしか」
 私は歌舞伎の下回りの役者で、せりふのつもりだから冷静沈着に言う。決して怒らない。居丈高にならない。バカヤローと言わない。怒ったり言ったりするのは相手である。
 目的は野次馬を集めることで、はたして野次馬は黒山のようになって、なかには駅員の胸ぐらをとるものがあるが、胸ぐらなんかとってはいけない。うっかりすると、いつのまにか鉄道公安官が写真をとって、あとで暴力をふるった証拠にする。彼らほど暴力を云々するものはいないから、断じて手出しをしてはいけない。

<引用終わり>

 当時の国鉄職員の態度などもうかがい知ることができる。ここで出てくる国労、動労とは国鉄労働組合」、「国鉄動力車労働組合」の略称である。特に動労は「鬼の動労」とも呼ばれた戦闘的な組織であったらしく、組合の綱領に「社会主義社会を目指す」と明記されていたらしい。今となってはそんな時代もあったのかと言うほか無い。ただ、この動労幹部であった松崎明*6は革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)*7創設時の副議長であり、JR東日本労組の委員長も務めた。JR東日本労組は革マル派の牛耳る労組であるとも言われていたが、先日大量に組合員が離脱したことでも知られている。革マル派は立憲民主党の枝野代表との関係も何度も取りざたされてきた組織でもある。山本夏彦は当時のマスコミについてもその報道姿勢を批判するとともに、国鉄職員(労組員?)の態度も再度批判している*8。

<引用開始>

 新聞はスト権を与えれば、ストはしなくなると書くことが多い。こういう説をとなえる知識人の説を載せることが多い。

ご存じのように国鉄はスト権がなくてもストをしている。これまでもしたから、これからもする。ベトナム戦争があればベトナム反戦スト、首相が訪米すれば首相訪米抗議スト、他にも日韓条約反対スト、以下たいていのことをストの理由にする。
 国鉄が民営になるなら、スト権を付与してもいいという意見がある。国鉄はそれを拒絶している。民営になれば親方日の丸でなくなるからである。民間の会社は景気に敏感である。この不景気にかくも大ぜいの不良職員をかかえていられる企業はない。当然整理するだろう。政治ストなど思いもよらなくなるだろう。だから民営に反対するのだろうと、読者は想像する。
   ~中略~
 私は言葉を扱うことを職業とするものだから、他人の言葉は気をつけて聞くほうである。国鉄の職員は昔からろくに口がきけなかったが、このごろはいよいよきけない。出札口で行先を告げても無言でいる。金を払っても無言でいる。釣銭があればぽーんと放ってよこす。
   ~中略~
 だからもし国鉄が民営になったら、かれらも(普通の口調で)言うようになるだろうが、親方日の丸なら、どんな不景気に見舞われても、言うことはないだろう。彼らは永遠に尋常な口をきかないだろう。
 口なんかきかなくてもかまわぬと、国鉄は言うだろうがそれは間違っている。当りまえな口がきけないものは文明人でないばかりか、そもそも人間ではないのである。
 なぜこれしきの口がきけないようになったかというと、彼らは管理職や上役と対立して、ある日あるとき、最低の言葉をつかったからである。すなわち「おめえ」「てめえ」「こいつら」「あいつら」などである。上役をてめえ呼ばわりすると、対等どころか自分のほうがえらくなったようで、いい気分である。だから仲間は皆そのまねをした。
 けれども、ストのときだけてめえと呼んで、ストがすんだらもとに戻って、敬語をつかったり、帰り道が同じだからと共に帰ったり、上役の細君に辞儀をしたり、お子さんの病気はそのごいかがですか、なんて言えるものではない。ひとたびてめえ呼ばわりしたら、両者の仲は微妙に絶えて、もとにもどらなくなる。朝晩のあいさつは出来なくなる。
 「お早う」「こんにちは」「おさきに」が言えないような人間関係は、そもそも人間関係ではない。そこにあるのは敵対関係で、彼らが好んで「敵」と言うのはこのためかと思われる。
 くだくだしいからこれ以上言わぬ。彼らは暴徒になったのである。なったのはひとにぎりなのに、なぜ国鉄全体がそれに左右されるかというと、それが「暴力」だからである。ひとにぎりの学生が学生全体を左右する例は、多くの学校に見られる。
 その組合員を、学生を、支持するものがあって、支持するものにはそれだけの理があるから、するなと言ってもきくまいから、私は支持するものにそれを確認してもらったほうがいいと思う。「判をもらえ判を」という小文を、私はこの欄に書いたから、あるいはご記憶のひともあろう。私はスト権支持の知識人にその旨確かめて、その人から判をもらって週刊誌はそれを発表したらよかろうと思っている。

<引用終わり>

 国鉄の労使関係、当時の労働組合の基本姿勢等が良くわかる文章である。また、今も似たような体質を引きずっているのが日教組ではあるまいか?

 また、1977年に左幸子が監督、主演した映画「遠い一本の道」は国労の全面協力を得て作られたという。ウィキペディアによれば、当時の金額で一億円提供したようだ。スト権ストが一般の国民の支持を得られなかったことによるリアクションだったのかもしれない。あらすじは以下のとおり*9。

<引用開始>

 女優・左幸子の初の長編劇映画監督作品。高度成長をとげ、かつて、もっとも恵まれた職業と言われた国鉄マンにも時代の波が押し寄せる。近代化、合理化の波に翻弄される労働者の憤り、誇りを、真正面から描いた骨太の政治映画。当時の国労が全面的に協力している。

<引用終わり>

 以前の記事で触れた東宝争議のときも、東宝労組は様々な労組と組んで映画を作ろうとしていた*10。昭和二十三年の春にはオール共産党スタッフで「大森林の女」という映画を作ろうとした。当時の東宝の幹部渡辺銕蔵によれば、ロケの予定地が北海道の北見であり、現地の各組合に金をばらまくと共に、旧ソ連軍が上陸したときのための橋頭堡を作るための情報収集の一面があったらしい。同時期に、国鉄労組と東宝労組が組合同志で契約して「炎の男」という映画の製作を企てていた。伊豆長岡の温泉宿を根拠とし、会合を重ねており、渡辺が気づいたときには、既に百万円以上の費用を消費していたらしい。また、電産労組も東宝労組と協議して信州で「深山の雪」という映画の製作に着手していたようだ。東宝争議が解決しなかったら、思想性が強く、興行収入も見込めない映画製作に時間と金を浪費し、早晩潰れていただろう。


*1 https://ja.wikipedia.org/wiki/スト権スト

*2 国労動労を生けどりにする(「かいつまんで言う」中公文庫、p.126)
*3 https://ja.wikipedia.org/wiki/国鉄労働組合

*4 https://ja.wikipedia.org/wiki/国鉄動力車労働組合

*5 https://ja.wikipedia.org/wiki/鉄道労働組合

*6 https://ja.wikipedia.org/wiki/松崎明

*7 https://ja.wikipedia.org/wiki/日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派

*8 もう一度ご判を(「かいつまんで言う」中公文庫、p.138)

*9 https://www.allcinema.net/cinema/146031

*10 https://ferreira.exblog.jp/29203690/

https://ja.wikipedia.org/wiki/マル生運動

https://ja.wikipedia.org/wiki/労働争議#順法闘争(遵法闘争)



# by ferreira_c | 2019-12-21 02:03 | 歴史 | Comments(0)

核融合のトリチウムに関わる人たちの最後のチャンス

 原子力規制委員会の更田委員長は10月16日の定例記者会見で、東京電力福島第一原発のトリチウムを含む処理水について、各地の原発でトリチウムを含む水を海に流している他の電力会社が見解を表明すべきだとの考えを示したらいしい。
「東電を応援するのなら、放出基準の中身や福島での放出に同意できるかどうかなど、同業者として言ってもよいのでは」
 ようやく国も本気になったようだ。そして核融合のトリチウム屋にとっても、これが意思表明の最後のチャンスである。折しも、原子力機構の一部門だった核融合研究部門は、既に放医研と統合され「量子科学技術研究開発機構」となっている。元より大学の核融合のトリチウム屋は原子力の色はついていない。今こそ須くトリチウム屋は総力をあげてトリチウム海洋放出を是認する声明文を出すべきである。



 そもそも既にお仲間はやらかしてしまった。お仲間とは岐阜県土岐市にある核融合科学研究所が有する世界最大級の超伝導プラズマ実験装置LHD(大型ヘリカル装置)のトリチウム管理部門の研究者たちである。希釈して放出すれば良いトリチウム含有水を土岐から千葉岩手県滝沢まで運んで処理してもらっている。いったい千葉滝沢でどうするのか? セメント固化して長期保管するのか? それとも、もっともっと薄くなるまでトリチウムの減衰を待つのか? もしや薄めて東京湾太平洋に流すのか? 土岐川から庄内川を経て伊勢湾に流せないトリチウムを東京湾太平洋に流すのか? 何をどう考えても納得できるものではない。単に様々な反対運動を忌避しただけであろう。
 先日、原子力学会誌で約一年に及ぶ連載記事「核融合トリチウム研究最前線ー原型炉実現に向けて」が終わった。最後を締める論文の著者は原子力機構から京都大学に移った方らしいが、非常にバランスのとれた論文であった。詳細についてはいずれ本ブログで紹介するつもりだ。しかしながら、敢えて自らの浅学菲才を棚に上げて申し上げるが、今もっとも必要とされる論文ではない。奇しくも、先の原子力学会秋の大会では、その研究者と原子力業界で外に向かって様々な発信を行っている東工大澤田哲生助教がトリチウムに関する口頭発表を行っていた。もちろん投稿分野が違うので比較するのは少々アンフェアではあるけれども、予稿を読んだ限りは澤田助教の発表に類する論文こそが、今、と言うよりもここ6年くらい待ち望まれているものであると感じる。どうか早急に核融合のトリチウム屋に動いてもらいたい。今動かなかったらいつ動くのか? 今こそ分岐点である。ゆめゆめ逃してはならない。
 もう一つの興味としては、各方面からトリチウム海洋放出是認の声明が出されたときの小泉大臣の言動、行動である。いかなる反応を示すのだろうか?

# by ferreira_c | 2019-10-19 04:45 | 原子力 | Comments(0)

まずはめでたい大臣就任

 戦前、政治の腐敗が叫ばれていた時期に内閣改造か交代が有った。その時、新聞の一面では政府を攻撃し、三面では大臣就任を祝う提灯行列のような記事を載せていたと山本夏彦が述べていた。
 小泉進次郎議員が環境・原子力防災担当大臣に就任した。マスコミはいろんなことはそっちのけで一挙手一投足、発言を報道した。小泉大臣は、これまでいろいろ発言してきたことを実現する良い機会であろう。どうか理想と現実の中で最適解を見つけていただきたい。
 昨日、福島を訪問し、前環境相が、東京電力福島第一原発でたまり続ける処理済みのトリチウムで汚染された「処理水」について「海洋放出しかない」と発言したことを詫びたと言う。ではどうすべきか? 世界的には十分に希釈して放出しているレベルである。先日、原子力規制委員会の更田委員長が、たまり続ける「処理水」について、「意思決定の期限が近づいている」とし、「放出が適当」と東電に迫った。でも、今の東電に何ができると言うのか? きちんと政治が責任を持って動くしかないのではないか?
 環境省所掌である原子力規制委員会の委員長の発言に対して、小泉大臣が今後どのように対処していくのかが大変興味深いところである。
# by ferreira_c | 2019-09-13 16:17 | 原子力 | Comments(0)


blogに名を借りたほぼ月記。軍学者兵頭二十八に私淑するエンジニア。さる業界所属ゆえにフェレイラと名乗る。

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